なんにもいわなかった。
善信はただ黙然と聞き終って、
「傷口に風を入れてはならぬ。大事にされよ」
と、いった。
師の房がなにもいわないにしても、その夜の人々は、生信房の話を聞いて、大きな感激につつまれたらしい。
みな敬虔な面持ちをたたえて、
「さ、お寝(やす)みなされたがよい」
と、生信房をいたわった。
幾日かたつと、その傷口も癒え、体の熱もさがった。
生信房は、はればれと床を出て、あしたはまた、町へ布教に出たいなどと友と話していた。
「生信房どの、お師さまが、お呼びになっていますぞ」
「え、お部屋で」
「いや、あの岩にお腰をすえられて」
「あ……」
と、生信房は、庵室の裏のほうへ眼をやって笑った。
師の房は、外で、初冬の陽ざしを楽しんでいるのだった。
「およびですか」
そこへ行くと、
「お掛け」
と、気がるである、師の房の顔までが、きょうは小春日の太陽のようにかがやかしい。
「もう傷口は」
「すっかり癒りました。ご心配をおかけしてすみません」
「さて、それについてじゃ」
――と、善信はことばを改め、
「生信房、おことの身にも、ようよう念仏の光がついて参られたの。いつぞやの話―祇王善信もありがたく聞きました。よい御修行をなされたことを、わしも共々に欣びましょう。このうえとも、その心を、忘れてくださるな」
と、手をとって、わが子がよいことをした折によろこぶ母のように、善信はよろこぶのであった。
「はい……」
生信房は、眼が熱くなった。
どうしてこのごろは、こう涙っぽくなったのかと自分でも思う。
しかし、その涙は、ただごとの涙ではとも思われない。
(――随喜)それだ、随喜の涙である。
生信房は、涙にまたたきながらそう思った。
「そこで――わしもこの間うちから考えていたが」
と、今日はいとも寛(くつろ)いだていで善信は何か述懐しようとするらしい、眼をふさいで、空へ顔を上げていたが、
「――善信。……これはわしの名だが、わしに取ってはなんとのう実(まこと)しやかで、あまりに浄(きよ)い名でもありすぎる。何かこのごろは、わしにはこの名がぴったりしないように思われてきたのじゃ。
――やがて年も四十の坂にちかいでの、三十九歳となったこの身に、なにやら、心にも変化が起ってきたのかもしれん。――とにかく、善信は、わしをあらわすには、ふさわしい名でないように思う」
めずらしいことを話し出される――と生信房は、師の顔を見て、
「そうでしょうか。私などには、すこしもそんな気はいたしませぬが」
と、いった。