親鸞 2016年6月25日

兄弟は、何年ぶりかで会ったのである。

戦場から戦場の生涯に行き迷(はぐ)れたままのように――久しぶりの邂逅だった。

しかも、変ったすがたで。

もう六十になる兄の盛綱と、五十という人生を越えてきた弟の四郎高綱と、二人は、幼少ごろの兄弟(はらから)の血をそのまま覚えて、いつまでも、抱き合っていた。

やがて――

「兄者人、どうしてここには?……」

と、高綱は不審がる。

盛綱もまた、

「どうして、おん身こそ、ここへは来たか。……しかも沙門の姿で?」

と、これも夢かのように、弟のすがたに見入るのだった。

鈴野が告げに行ったのであろう。

――奥のほうから、西仏が、

「なに、佐々木の舎弟が見えられたと。――それは真(まこと)か」

あわただしく出てきて、紛れない四郎高綱の姿を見るなり、

「おお」

と、手をのばした。

「やあ、太夫房覚明か」

と、高綱も手をさし出す。

「いや、今では、念仏門の西仏房じゃ」

「そうそう、ここの御弟子とな。うらやましい」

「高綱どの、ずっと前に、わしから児島の城へさし出した手紙、見てくれたか」

「見たっ」

と、強く答えて、四郎高綱は、鎮痛にいった。

「――持つべきものは友達だ、あの書状がなかったら、わしはまだ児島の城の業火の中に、みすみす昼夜の苦患(くげん)にわずらっていたかも知れぬ。……糞中の穢虫も、おぬしの喝破に眼がさめて、やっと、外の清さを知ってここへ来たのじゃ。……兄者人、西仏房、どうかこのことを、上人へお取次をたのむ、残水の小魚を、宏大無辺の慈泉にすくい取らせたまわるよう、二人から、おとりなしの程をたのむ」

真実が声にもあふれていた。

盛綱は、そっと、眼をふいていた。

もちろん、西仏も、自分のやった一片の手紙が、この仏縁をつくったと思えば、うれしくてたまらなかった。

その翌る朝、――朝のすがすがしい気持をもって、四郎高綱は、渇仰していた親鸞に会った。

もちろん、親鸞は、

「ようござった」

と、ことばは短いものであったが、高綱の発心に対して、共々、よろこんでくれたし、その日から、弟子のひとりとして彼を許すことに何のためらいもなかった。

釈了智(しゃくりょうち)。

それは四郎高綱がこの朝、親鸞から与えられた再生の名であった。

兄の盛綱は、そのまえに、光実という名を授けられていた。

――光実と了智と――ふたりの名だたる源氏の武将が、今では、よそ目にもうらやましい睦まじさで、親鸞のもとに、法悦の日を送っているのを見ると、この越後や隣国の人々は、さらに親鸞に帰依の心を厚くした。

そうして、小丸山の庵室は、一夕の法話でもあると、真冬の大雪を冒しても、聴聞に寄ってくる人々が、目立って数を増してきた。

――万丈の白雪の下から、蕗の芽のように、念仏の声は萌えていた。