兄弟は、何年ぶりかで会ったのである。
戦場から戦場の生涯に行き迷(はぐ)れたままのように――久しぶりの邂逅だった。
しかも、変ったすがたで。
もう六十になる兄の盛綱と、五十という人生を越えてきた弟の四郎高綱と、二人は、幼少ごろの兄弟(はらから)の血をそのまま覚えて、いつまでも、抱き合っていた。
やがて――
「兄者人、どうしてここには?……」
と、高綱は不審がる。
盛綱もまた、
「どうして、おん身こそ、ここへは来たか。……しかも沙門の姿で?」
と、これも夢かのように、弟のすがたに見入るのだった。
鈴野が告げに行ったのであろう。
――奥のほうから、西仏が、
「なに、佐々木の舎弟が見えられたと。――それは真(まこと)か」
あわただしく出てきて、紛れない四郎高綱の姿を見るなり、
「おお」
と、手をのばした。
「やあ、太夫房覚明か」
と、高綱も手をさし出す。
「いや、今では、念仏門の西仏房じゃ」
「そうそう、ここの御弟子とな。うらやましい」
「高綱どの、ずっと前に、わしから児島の城へさし出した手紙、見てくれたか」
「見たっ」
と、強く答えて、四郎高綱は、鎮痛にいった。
「――持つべきものは友達だ、あの書状がなかったら、わしはまだ児島の城の業火の中に、みすみす昼夜の苦患(くげん)にわずらっていたかも知れぬ。……糞中の穢虫も、おぬしの喝破に眼がさめて、やっと、外の清さを知ってここへ来たのじゃ。……兄者人、西仏房、どうかこのことを、上人へお取次をたのむ、残水の小魚を、宏大無辺の慈泉にすくい取らせたまわるよう、二人から、おとりなしの程をたのむ」
真実が声にもあふれていた。
盛綱は、そっと、眼をふいていた。
もちろん、西仏も、自分のやった一片の手紙が、この仏縁をつくったと思えば、うれしくてたまらなかった。
その翌る朝、――朝のすがすがしい気持をもって、四郎高綱は、渇仰していた親鸞に会った。
もちろん、親鸞は、
「ようござった」
と、ことばは短いものであったが、高綱の発心に対して、共々、よろこんでくれたし、その日から、弟子のひとりとして彼を許すことに何のためらいもなかった。
釈了智(しゃくりょうち)。
それは四郎高綱がこの朝、親鸞から与えられた再生の名であった。
兄の盛綱は、そのまえに、光実という名を授けられていた。
――光実と了智と――ふたりの名だたる源氏の武将が、今では、よそ目にもうらやましい睦まじさで、親鸞のもとに、法悦の日を送っているのを見ると、この越後や隣国の人々は、さらに親鸞に帰依の心を厚くした。
そうして、小丸山の庵室は、一夕の法話でもあると、真冬の大雪を冒しても、聴聞に寄ってくる人々が、目立って数を増してきた。
――万丈の白雪の下から、蕗の芽のように、念仏の声は萌えていた。