「――すわっ」
弁円は、肋骨(あばら)の下に、どっと血を搏(う)たせた。
彼は、第一の柵、第二の柵、第三の柵とこの峠の通路をかためて潜伏している人々とはべつに、小高い所の岩に乗って、背よりも高い熊笹をかぶっていた。
そして、鉄弦のような半弓に、毒矢をつがえ、鏃(やじり)下がりに、峠道を狙いすましているのである。
(今日こそ)心のうちに、孔雀明王の加護を念じて――
がさっ……と今、音がしたのである。
曲がり道になっている熊笹の崖と林の間に。
だが、それは親鸞の来た跫音ではなかった。
虹のように尾を曳いて、笹むらから雉子が飛び立って行ったのであった。
ざ、ざ、ざ……とどこかで土の音が静寂(しじま)を破る。
(今度こそは)弓をしぼっていると、その音は後ろの谷間へいつまでも続いている。
自然の土崩れなのであった。
今か、今か――とそうして心気を緊(は)りつめているうちに、弁円は、疲れてきた。
疲れを感じると、なんとなく焦燥してきて、根気よく鳴りをしずめている他の者へ、何か、大声で呶鳴ってみたい気がしたが、もし親鸞にさとられてはと、なおも、じっと、疼きを抑えつけていた。
からかうように、山鳩が、ばたばたと無遠慮につばさを鳴らして、谷へ舞って行った。
――空しい水音が、ぐわうとその谷底を揺すり流れている。
すると、
「おのれッ」
声が揚った。
一喝、山に谺をさせ、二の手の柵から踊り出した者がある。
甲賀坊だった、脱兎のように、一の手のほうへ、戒刀を引っさげて駈け出して行った。
「来たっ」
「逃がすなっ」
先駆した甲賀坊につり込まれて、二の手の者五、六人、皆穂すすきが流れるように太刀をひっさげ、
「――どこだっ」
すさまじい旋風(つむじ)をつくって、われがちに飛ぶ。
「どこだっ」
同じような言葉を返して、一の手の者も、どっと、一斉に起ち上がった。
そして、走ってきた二の手の者とぶつかって、混乱しながら、
「どこだどこだ」
わめき合った。
弁円はこなたからその様子を見て、さては、矢にも及ばなかったかと半弓を投げすてて、そこへ駈けつけた。
だが、怪しからぬことには、彼がそこまで来る間にも、まだ一の手の者、二の手の者、すべてが一致を欠いて、林の中へ入ったり、崖を登ってみたり、谷間を探したり、ただうろついているに過ぎないのである。
「たわけ者めが、なにを猶予しているのだ。――親鸞、親鸞は」
「さがして居申す」
「ばかっ。逃がしたのか」
「いや」
「ではどうしたのだ。先に、起ち上がったのは誰だ」
「甲賀坊でござる」
「甲賀坊、親鸞を見たのか」