「――見たというても、その親鸞の姿がどこにも見えぬのは何としたものだ」
「いや、たしかに」
「ではどこに――」
「あの俎板岩(まないたいわ)の辺りから――そういえば沢辺のほうへ降りたのかも知れぬ」
弁円と甲賀坊の押し問答を聞きながら、その親鸞の影を、きょろきょろ眼(まなこ)で探しているほかの者たちは
「不審な」
と、つぶやきあって、
「幻ではないか」
迷路の辻に立ち迷っているような気がして、何か自分自身の錯覚に、背すじを寒いものに襲われた。
――すると、その錯覚感と静寂(しじま)の不気味な空気をやぶって、どこかで、馬のいななきが高く聞えた。
明らかに、それは馬のいななきであったし、また、小石を弾くような蹄(ひづめ)の音と共に、
「しいッ……しい」
と呶鳴る馬方の濁す声(どすごえ)が、はるか谷の下の加茂部(かもべ)へ行く道の辺でひびいた。
そこは、また、石岡へ出る道路でもある。
当然、そこへも万一を慮って、坂茂木を仕掛けておいたはずであるのに――
「しまった!」
と、樹の上から谷街道のほうを見下ろして、一人があわてて叫んだ。
「ばかな奴、あれは石岡へ炭を積んで出る荷駄馬だ。落し穽へ落ちた馬を、大汗掻いて引き出しておるわ。こっちで仕掛けた坂茂木滅茶滅茶にしてしまいおった」
「忌々しい馬子め」
「血祭を与えろ」
ピュッ――と誰かの手から弦唸りを切って毒矢が飛んだ。
けたたましい馬の悲鳴が、ふたたび谷間に谺(こだま)して、腹に矢を突き立てた馬は渓流の中へ飛びこんで、渓水(たにみず)を真っ赤にした。
馬子は驚いた様子で、盲走りに、向側の絶壁へかじりついた。
見ていると、そこにも杣(そま)道があるらしく、馬子の姿は、たちまち見えなくなった。
弁円は、歯がみをして、
「察するところ親鸞と生信房のふたりは、どこか、俺たちの気づかぬ間道を廻ったと見えるぞ。それっ、手わけをして、谷の下、峰の上、八方の細道をさがして引っ捕えろ」
猟人(かりゅうど)のように、山伏たちは、熊笹や木の中へ飛びこんだ。
陽はいつか山の端にかくれて、冷たい気が白々と降りてくる。
衣の袖は湿っぽく濡れ、はなればなれになった人数は、おのおの道に迷って、おおウいと仲間を呼んでも、谺のほかの答えはしなかった。
「弁円殿っ。――播磨公殿っ」
声では返事がないので、そうしきりに呼んでいた一人の山伏は、岩の上から法螺貝をふいた。
――大きく二度、三度、四度と。
(何事やある)
(さては親鸞を)と山伏は方々から再び峠の一ヵ所に群れ集まった。
その中には、眉間に蒼白い焦燥を刻んでいる弁円の顔もあった。
「なんだ、相模坊」
「残念です」
「どうしたと」
「ただ今、麓からの報(し)らせです。親鸞と生信房のふたりは、もう疾くに、稲田の庵室へ立ち帰って、弟子どもや妻子と和やかに笑いさざめいているとのこと。……いったいここや谷道の幾重もの柵は、何に備えていたのでござるか」
「げッ、親鸞は、もう稲田へ帰っていると……そ、それは真(まこと)か」弁円は、信じられないような顔をしていった。