親鸞 2016年9月1日

 疑っても疑いようのない事実が、麓から弁円の前へ、次々に注進された。

 どうして、水も漏らさぬこの備えを潜り抜けたか、この板敷山の嶮を無難に通って行ったか?

 弁円をはじめ、山伏たちには、不審でならなかったが、親鸞がすでに稲田の草庵に帰り着いているという事実はもう動かせない。

「やはり、あの僧には、ふしぎな霊覚があるのではないか」

「こっちで、法力をもってすれば、親鸞も法力をもって覚(さと)り、こっちで呪殺の縄を張れば、彼も破邪の呪を行って、吾々の眼をくらましたに違いない」

山伏たちは、今日の失敗を招いたことから、かえって親鸞に対する恐怖と畏敬を高めてしまった。

やはり彼は非凡人であったと心から考え出して、そういう有徳の僧に毒矢をつがえた身のほどが恐ろしくなったしまった。

平常は冷笑してた天譴(てんけん)とかいうことも、真剣に思い出されて、初めの元気を喪失してしまったばかりでなく、寒々と峠の笹むらを渡る夕風の中に、ぶるぶるっと心の底からおじけに似た戦慄を抱いた。

「――出し抜かれた」

独りこう呻いて、やり場のない憤怒に、眉をあげているのは弁円であった。

「かくまで、吾々を愚弄して、なにおめおめと十六房の主権、播磨公弁円といわれて人に面(おもて)をあわされよう。――よしっ、この上は、稲田の売僧小屋を踏み破って、親鸞の首捻じ切ってくれる。――見ておれっ」

 ガラリと、手の弓を投げ捨てて、一散に麓へ向って駈けて行った。

 すでに、怯気(おじけ)に襲われ、最初の気勢を失ってしまった他の山伏たちは、呆っ気にとられて、魔王弁円のすさまじい後ろ姿を、ただ見送っている。

 板敷山から三十余丁を、弁円は、一気に駈けてしまった。

火焔のような息をきって、彼方に見えた灯影へ向って近づいて行った。

「――ここだな」

 稲田の庵室と見るや否、弁円は、柴の折戸を土足で蹴って、案内もなく、つかつかと庭の闇へ駈け込んだ。

そして、仁王立ちとなって、

「親鸞はおるかっ」と、呶鳴った。

 こよいは村の者も寄っていなかった、いやもう夜も深いので、それらの者も帰り、禅房の弟子たちも室に眠り、親鸞の妻子も夢の中に入っているのかもしれない。

 寂として――庵室のうちは静かなのである――ただ短檠(たんけい)の一穂(いっすい)の灯が、そこの蔀簾(しとみすだれ)のうちで夜風に揺れていた。

 満願を汗に濡らし、声は百雷の墜(お)つるように弁円は、全身を怒気に満ちた瘤(こぶ)にして再び呶鳴った。

「親鸞はおらぬかっ、愚禿はどこにおるかっ。すでにここに立ち帰っておろうが。常陸一国の修験の司、播磨公弁円が、破戒無慙の念仏売僧に、金剛杖の灌頂(かんじょう)をさずけに参った。われこそは正しき仏陀の使者、破邪顕正の菩薩、孔雀明王がお旨をうけて参った者。――出てこずば、踏みこんで、愚禿の素首(すこうべ)を打ち落すがよいか。――会おう、親鸞、出てきませいっ」

 横たえている三尺の戒刀に反りを打たせ、大魔の吼えるように、ひっそりした庵室の中の一つ灯へ向っていった。

*「灌頂(かんじょう)」=真言宗で、受戒・結縁のとき、香水を頭にそそぐ儀式。