平成30年7月法話 『生きるとは いのちを頂くこと』(中期)

私たちは、漠然と「自分のいのちは自分のものだ」と思っています。

果たして、そうでしょうか。

自分のいのちであれば、自分で思い通りにできるはずです。

ところが、私のいのちは全くもって私の思い通りにはなりません。

例えば、私が自分の財布に公金を入れて持ち歩いているとします。

私の財布の中に入っているお金なのですから、私が自由に使ってもよさそうなものですが、もし私的なことに使うと公金横領という罪に問われてしまいます。

私が私的なことに使ったとしても、誰からも何一つ文句を言われなければ「私のお金だ」ということができるのでしょうが、私の財布に入っていても私の思い通りにならなければ、これは私のお金だとは言いえません。

そうすると、私のいのちは決して私の思い通りにはならないのですから、どうやら「私のもの」とは言えなさそうです。

思えば、気がついた時には、私はすでにこの「私」として生きていました。

時代・環境・性別・能力、その他ありとあらゆることにおいて、たったひとつの選びもなく、私は自らのことをあれこれ意識する以前から、そしてそれ以降も、ここまで生きています。

言うなれば、いのちが今、私を生きているのです。

ところで、気が付けば今年ももう折り返し点を過ぎて、後半に入りました。

いろんなことに追われるように生きていると、一日を、一週間を、一か月を終えるのに汲汲として、しなければならないことを終わらせるだけで精一杯といった生き方をしているように思います。

そんな中で、突然「あなたにとって、生きるってどんなことですか」と問われたら、あなたはどのように答えられますか。私たちは「生まれた以上、いつの日か必ず死ななければならない」ということは漠然と知っています。

けれども、「そのことについて深く考えたことがあるか」ときかれると、大半の人は生の側から死を見る生き方をしていますし、できれば自分が死ぬということについてはあまり考えたくないと思っているので「分からない」と答えるかもしれません。

この点、仏教は死から目を背けることなく、むしろ死ぬからこそ本当に生きる道を問うことを教えています。

私たちは、死なないのであれば、どんな生き方をしていてもどうにかなるものです。

けれども、必ず死んでしまいます。

しかも、それがいつかということが分からないのです。

仮に「余命一年」と宣告されたとして、ではその一年を全うできるかというと、不慮の事故や災害、あるいは突然の病によって明日死んでしまうかもしれないのです。

私のいのちは、見直すことはできてもやり直すことはできませんし、誰にも代わってもらえません。

だからこそ、生の側からではなく、必ず死ぬのだということを直視して、そこからこの人生をいかに生きるかということを問う必要があるのだと言えます。

また、いのちの事実に目を向けると、生きていくためには多くのいのちを食して生きているということが明らかになります。

経典には「生きとし生けるものは、すべて自らのいのちを愛して生きている」と説かれています。

そうすると、私たちは、そのいのちを毎日食べていきているのですから、詩人の榎本栄一さんが「罪悪深重」という詩で

私はこんにちまで
海の 大地の
無数の生きものを食べてきた
私のつみのふかさは
底しれず

と詠まれたように、私の日暮らしは「殺」の上に成り立っているのだと思わざる得ないことに気がつきます。

まさに、私たちが生きるということは、いのちを頂くことにほかならないのです。

では、私のために死んでいった多くのいのちは、何も思わないで死んでいったのでしょうか。

もし言葉が通じるとしたら「私はあなたに食べられるために生まれてきたのではない。だから、あなたには私のいのちを無駄にしない生き方をしてもらわなくてはならない」という言葉を残していったかもしれません。

そのような「声なき声」に心を寄せるとき、「生きるとは、いのちを頂くこと」という言葉の重さが、改めて感じられます。