「仏道」とは、仏様が説かれた教えであり、悟りへと向かう道のことです。
あまりむずかしく考えず、「今の私」における「仏道」とは何でしょうか。
それは、副題にも申しました通り「私を知らされる」ということだと思います。
南無阿弥陀仏をお伝えくださった親鸞聖人のお言葉に、次の一文があります。
さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし
これは、私という存在は、あらゆる縁によってうながされたならば、どんな行いもする可能性があるという意味です。
近年は日本に限らず世界の各地で私たちの想像を超える事件が頻発しています。
ニュース等では専門家が動機や経緯について解説をされていますが、犯人だけでなく犯人の親・兄弟・家族や親戚までも取材をされることが多くあります。
そして罪を犯した人、さらにはその家族も社会(自分の周り)から排除する。
確かに二度と繰り替えされることのないよう、様々な取り組みが必要ではありますが、怒りや憎しみだけを煽り、その感情に任せ排除していく姿には違和感を覚えます。
親鸞聖人のお言葉をいただくとき、自分や自分の家族が、他人に迷惑をかけるようなことは絶対にしないと言い切ることができるでしょうか。
たまたま育った環境や境遇で、今の私は存在しています。
もし、想像も及ばない状況に追い詰められたり、そのような場面に出遭ってしまったり、犯罪や事件に関わってしまうような条件が身の回りに揃ってしまったのならば、何をしでかすかわからない。
その危うい自身の姿を知らされ、自覚することが肝要ではないでしょうか。
以前、刑務所でお勤めされる刑務官の方とお話をしたときの言葉が忘れられません。
その方は私に「みんな同じ人間ですから」とおっしゃいました。
時に、同じ人を人と思わない心を持ち合わせた私の姿を知らされた瞬間でもありました。
被害者へ寄り添うと共に、加害者やその家族の背景やさまざまなことにも心を配る必要があるのではないでしょうか。
2017年にご往生された精密機器メーカー「ミツトヨ」の元会長で、仏教伝道協会会長を務められた沼田智秀さんは次のように語られたそうです。
「仏教に深く接するにつれ、仏教の持つ「寛容の精神」の素晴らしさを感じるようになりました。世界では宗教に限らず我々の身の周りにも様々な争いが絶えませんが、お互いを認め合う、この寛容の精神があれば、争いも起きなくなると思っております。」
実際に行動に移さずとも、心の中では愚痴や妬みや僻み、さらにはこんな人はいなくなってしまえばいいと簡単に思ってしまうのが私の本当の姿です。
だからこそ、仏法を聞かせていただくとき、そのような私の本当の姿を知らされると共に、私が願うより先に、望むよりも先に私を喚び続ける仏様に感謝し、この命も他の命も尊いと思える人生を歩ませていただくのです。
南無阿弥陀仏