刑事ドラマなどを見ていると、偉そうな人が部下にむかって「仏さんは見つかったか?」と聞く。
部下は「はい!川から出てきました」と答え「外傷は。。。。」とドラマがすすんでいく。
どうやらご遺体のことを”仏”といっているようだ。
しかし、仏教の本を読んでいると”仏とは執着を離れた方だ”という言葉がでてくる。
どうやら世間の仏という言葉に対する理解、と仏の本当の意味は大きく違うようだ。
昨年8月、私は新車を買った。
車社会の田舎では、車で過ごす時間も長い。
だから、まあまあいい車を買った。
もちろん絶対にぶつけたくないと思った。
慎重に慎重に運転した。
それはもう慎重すぎるくらいに。
2か月が経った10月に、その車をぶつけてしまった。
助手席側に大きなキズがついて、泣きそうだった。
しかしあの日以降変わったことがある。
それは、車を運転するのが楽になったこと。
まるで車に翼が生えたかのようにスピードが出せるし、細い道にもどんどん通ってゆける。
傷をつけたことによって、車への過剰な執着がなくなったのだと思う。
物への執着がなくなると、とても気分が楽になる。
私たちは、執着の塊だという。
自分への執着は特に強いといわれる。
例えば、集合写真をもらったら、最初に自分がうまく映っているかどうかを確認する。
また、近所の方が癌になったと聞いても「かわいそうに」くらのことしか思わないが、いざ自分が癌になったら気分はどん底にまで落ちる。
そこども生への執着がなくなると、非常に落ち着いた心の世界がひろがるようだ。
その世界を仏教では「自他一如(じたいちにょ)の世界」という。
それは自分と自分以外が一つになるような世界。
それはつまり、
相手の幸せを自分の幸せとして心から喜び、相手の悲しみを自分の悲しみとして心から悲しむことができる世界なのだそう。
この心を慈悲という。
この慈悲の持ち主のことを仏という。
私は、人にあまり優しくなれない。
仏になるとは”本当に優しくなる”ということではないだろうか。
その表現が、今の私にはしっくりくる・・・