昨年11月、ローマ教皇が38年ぶりに訪日されました。
教皇は来日された理由について、「大勢の人の夢と希望が、一瞬の閃光と炎によって消された。人類に刻まれた記憶であり、私は平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じてきた」と語られました。
広島市の平和記念公園で開かれた「平和の集い」に出席された教皇の演説をお聞きになられた方も多いのではないでしょうか。
教皇は演説で、「戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか。差別と憎悪の演説という役に立たない行為をいくらかするだけで自らを正当化しながら、どうして平和について話せるでしょうか」と厳しい言葉で非難されました。
さらに、聖パウロ6世の国連でのスピーチを引用され、「より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。武器を手にしたまま、愛することはできません」と語られました。
宗教は違えど、仏教にも「兵戈無用(ひょうがむよう)」という言葉があります。
これは、「武器も軍隊もいらない」という意味ですが、その一節は「仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよいときに降り、災害や疫病(えきびょう)なども起こらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲(ゆず)り合うのである。」とあります。
現在、新型コロナウィルス感染症の感染拡大により全世界が危機的な状況にあり、新たな社会生活が模索されている状況にあります。
感染症の影響で外出自粛が増えた中、様々な問題も連鎖的に発生しています。
特にインターネット等のSNSでの誹謗中傷は大きな社会問題となっています。
匿名の書き込みで他者を傷つけ、追い詰めるネットによる誹謗中傷は「指殺人」とも呼ばれていることをご存知でしょうか。
現代の私たちは自覚がなくても、武器を持っていなくても、指一本で他人を死に追いやることができる社会で生活をしています。
教皇が演説で語られたように、自分ばかりを正当化し、差別と憎悪の行為を繰り返していては平和な社会になるはずがありません。
私たち一人一人が、少しだけでも、1日に1回でも、自分以外の誰かに思いを寄せることが必要だと切に思います。
今、私に必要な事は何か、そのためには何を大切にしなければならないのか、考えるご縁になることを念じます。
自分の心と向き合ってみる時間を、僅かでも創ってみませんか?
合掌
南無阿弥陀仏