今日「縁起」という言葉は、日常会話の中で「縁起が良い」「縁起が悪い」「縁起をかつぐ」という言い方で、「ものごとの起こる前ぶれ」の意味で用いられています。けれども「縁起」とはそういった前兆のことではなく、お釈迦さまが悟られた真理で、「因縁生起」つまり「因って起こること」ということです。
お釈迦さまは、苦しみを生み出す因果の系列をさかのぼることによって、苦しみの根本的な原因は無明(根本煩悩)であることをさぐりあて、それを滅することによって苦悩を解消することができることに気付かれました。それは、苦しみはわけもなく起こるのではなく、何らかの直接的な原因(因)と間接的な条件(縁)によって起こり、その原因・条件(因縁)がなくなれば、苦しみはなくなるということを悟られたということです。
そして、悟りを得られた後、この縁起の教えを整理され「十二支縁起(十二因縁)」と呼ばれる教えとして完成されました。この「十二支縁起」については、現在いくつかの解釈があって簡単に理解するのは難しいので、とりあえず、お釈迦さまが説かれた「縁起」の教えとは、この世が無常であることを明らかにすることによって、この世の苦しみとは何かということを説明する一方で、苦しみを滅するために、苦しみを生み出す原因が無明であることを明らかにされた思想であると知れば良いのだと思われます。それは、言い換えると、この世の一切は、因と縁が関係しあって果を生み出しているということが分かればよいということです。
『雑阿含経』などにおいて、十二支縁起が説かれる初めの部分に「これあればかれあり。これ生ずればかれ生ず。これなければかれなし。これ滅すればかれ滅す」という定型の表現が用いられています。これも、この世に存在している一切のものは、何一つとして単独にあるものはなく、すべてが互いに関係しあう中で存在しているということを説いているのだといえます。
また、「縁起」を説明するときに、しばしば「種と花の関係」が譬えとして用いられます。この場合、種が原因で花が果ということになりますが、このとき注意しなければならないのは、種があるからといってすぐに花が咲くかというと、種だけでは絶対に花は咲かないということです。そこには、太陽の光とか雨や大地などの間接的な働きが必要になります。仏教では、これら間接的な働きを「縁」といいます。確かに、種が花を咲かせるのですから、因がそのまま結果を生んでいることになるのですが、この因である種が花という果を結ぶためには、太陽の光や雨や大地という「縁」にふれなくては、絶対に「果」は生まれません。つまり、因と縁によって果が導かれるというわけです。
ところで、「念ずれば花開く」という言葉があります。一般に理解されている「念」という字の意味は、思いや気持ち・望みなどのことで、「対象に向かって心を集中して瞑想する」「一途に思う」「思い詰める」などの意味で用いられます。したがって、この言葉は「何事も一生懸命に望めば自ずから道は開ける」とか、「一途に思えば夢や目標がかなう」という意味で理解され、多くの人々の共感を生み、各地にこの言葉を刻んだ石碑も立てられたりしています。この場合、念ずることによって開くのは、桜や木蓮、山吹といった花などではなく、自分の夢や希望などのことです。決して、実際に咲く花のことだと勘違いしてはいけないことに注意する必要があります。なぜなら、実際の花は「願わざれども花は咲き 願いてもなお花は散る」といわれるように、私の想いとは無関係に咲いて散るからです。
縷々述べてきたように、花が咲いたり散ったりする「縁」は、決して私の「念(思い)」ではなく、光や雨や土などにほかなりません。なお、仏教語としての「念」は、自分の心の内を見て、尊い何か・目には見えない何かに対して向き合うことを言います。
さて、私たちが見たり聞いたりして体験するこの世界の一切の出来事は、必ず種々の原因と条件が重なり合って成立しています。ところが、不慮の事故や自然災害が起こったり病気や大きなケガをしたりした時など、私たちはそれが不意に不条理なことが起こったと見てしまいます。けれども、実はそれらの事柄は必ず原因や条件が複雑に重なり合って起こっているのです。そこで仏教では、自身の周囲に起きている個々の事象をごまかしたり他に責任を転嫁したりせず、あるがままに如実に見ることを「縁起を見る」といい、またそのように見ることができることを「智慧を得る」といいます。
したがって、私たちは縁起の思想における因と縁、そして結果の関係を時間的な関係と同時に、また空間的な関係において理解することが大切なのだといえます。すべてが変化し、何一つとしてとどまることのないこの世界において、今私がここにこうして生きているという事実は、さまざまないのちによって支えられているということです。花が縁によって咲き、縁によって散るように、私もまた縁によって生まれ縁によって死んでいくのです。
ところが、私たちは現に目に映ったことのままにしか物事を見ることができません。ある人が死ぬと「死んだ」と見、赤ちゃんが生まれるのを見ると「生まれた」という見方をします。そして、その赤ちゃんが成長し、やがて年老いて亡くなると、また「死んだ」という見方をします。要するに自分の目に見える現象の世界だけで物事を考え、それがあたかも真実であるかのように錯覚してしまうのです。仏教では、一切は無常であり、無我であると説き、その根源的なはたらきを「縁起」という言葉で教えています。「無常」とは、現世におけるすべてのものが速やかに移り変わって、ひとときも同じ状態にとどまらないこと。「無我」とは、不変の実体である我は存在しないとすることです。
私たちは、そう教えられても、知識的な理解にとどまるだけで、その本質にはなかなか気づき得ません。そして、ものごとを実体的にしかとらえることができないので、生まれる以前の私にしても死後の私にしても、いまここに存在する私をおさえて、それと同一線上で存在論的に自分をとらえてしまうことになります。
これに対して、仏や菩薩は一切の存在は因縁生であって、固定的な実体は存在しないことを見抜いておられます。「因縁生」というのは、この世の一切が、さまざまな因と縁によって、すべてのものが固定的な形を保つのではなく、さまざまに生まれ変わっていくということです。そのような意味で「このもの」という実体は存在しないのですが、因縁によってさまざまに生まれ変わる「生」はあります。そこで、迷いを破り浄土に生まれるべき因と縁が和合すると、浄土に生まれる「生」は厳然と存在することになります。ただし、それは私たち凡夫のとらえられるような実体的な「生」ではありません。
そこで、私たちにとって大切なことは、実の生死としてしか、自分の実体をとらえることしかできないことを自覚するとともに、真実を見抜いて私たちを導かれる仏・菩薩の語り掛けに真摯に耳を傾け続けることだといえます。