住職としてお預かりさせていただいているお寺の本堂再建を来年(令和5年度)に控え、明治32年に建立された現在の本堂の姿を目にするのも、いよいよあと半年余りとなりました。
鹿児島は、江戸時代を通じて念仏禁制(弾圧)が行われ、県内には一か寺として浄土真宗の寺院はありませんでした。しかも、念仏者であることが藩に露見すると、棄教を迫られ、それを拒むと厳しい処罰が待っていました。そういった苦難の時代を経て、明治9年9月5日に政府から信教自由の令が出され、ようやく鹿児島でも公然とお念仏を称えることができるようになりました。そして、それ以降、県内の各地には、篤信のお同行の方々の手によって、説教所や寺院が建てられるようになりました。
私の住む地域にも明治18年に説教所が建てられました。そして、当時大阪より来鹿し、開教中であった開基住職に当地の御門徒がこのまま留まるよう懇願されました。開基住職は、その熱意に感涙し、この地に永住することを決意。寺院活動の土台が築かれました。
そして明治32年、ついに人々の念願がかない、みんなが待ち望んだ本堂が建立されました。今も本堂の板には、建設当時の御懇志をされた多くの方々の御芳名が残っています。まだ、拾圓や壱圓、壱銭といった時代に、お一人お一人が、それぞれ精一杯の御懇志を持ち寄られる中で、現在の本堂は建てられたのでした。
以後、聞法の場だけにとどまることなく、農繁期には地域の保育所として、本堂や境内は子どもたちの遊び場となりました。子どもたちは、阿弥陀さまに見守られながら遊び、歌い、お昼寝をしたり、おさがりのお菓子や果物を食べたり、本堂の床下に潜り込んで探検をしたりするなど、地域の子ども達にとって、本堂は幼少期の忘れられない思い出のいっぱい詰まった大切な場所となりました。
やがて、大人になって故郷を離れても、帰省してお寺を訪ねると、「そこには、当時と何一つ変わらない景色が広がっている」。ご年配の方々は、今でも嬉しそうにそう話してくださいます。そういったお話を聞くたびに、「心のふるさと」とでも言い表すべき、この本堂を中心とする懐かしい景色を、そして何よりもたくさん思いでの詰まったこの本堂を取り壊してしまっていいのだろうか。その思いは、本堂の再建を決めた今でも、強く私の心に問いかけてきます。なぜなら、私にとってもここが唯一無二のかけがえのない場所だからです。
今年の夏は、後日修正されましたが、発表当時は例年になく早い梅雨明けが話題となりました。しかし、築124年の本堂には、近年顕著に見られるようになった猛烈な雨を凌ぐ余力はもうありませんでした。ひとたび大雨が降ると、天井から滴る雨漏りのしずくは、自らの体力の限界を物語る涙のように見えて、私の目にはまるで本堂が泣いているように思えてなりませんでした。
ラスト1年、役目を終える最後の瞬間まで、阿弥陀如来様をお守りする本堂としての使命を、全身の痛みを押して涙を流しながら一生懸命に力を振り絞ってがんばってくれているかのようなその姿に、私も涙が止まりませんでした。ただただ畳にひざまずき、あふれ出る本堂の涙を受け止めることが、本堂への精一杯のご恩返しでありました。
本堂の屋根には、いよいよブルーシートが掛けられました。手厚いというにはほど遠い処置なのですが…、けれども、少しでもその痛みを和らげることができるよう、屋根の傷を覆い、雨漏りを防ぐための処置を行いました。
これから、この本堂で迎える最後の報恩講、お正月、そして子ども園の卒園式を行います。おそらく、その度にいろいろな思いが去来して胸がいっぱいになり、声を震わせている自分の姿は容易に想像がつきます。
ここで出会い、ここで泣き、ここで慶び、本堂で過ごした数々の思い出を日々胸に刻みながら、「ありがとう、ありがとう」と、これからもずっと声に出して、その日が来るまで本堂に感謝を伝え続けていきたいと思います。