今日わたしたちは、親鸞聖人のみ教えをいただく者の集まり(教団)、すなわち宗派の名称として
「浄土真宗」
という言葉を用いていますが、親鸞聖人は
「浄土真宗」
をこれとは違う意味で示しておられます。
親鸞聖人の主著『教行信証』を窺うと、
「教巻」の最初に
「謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。
一つには往相、二つには還相なり。
往相の廻向について真実の教行信証あり」
とあります。
この文は、浄土真宗とは何かを端的に示された非常に重要な箇所で、
「浄土真宗」と
「二種の廻向」
という言葉は、親鸞聖人の思想の根幹になるものだと考えられます。
親鸞聖人は、まさにこれこそが
「真実」
だということを、この言葉を通して示されているからです。
では、浄土真宗とは何か。
「浄土」
に対応する言葉は
「穢土」です。
それは、私たちの住むこの娑婆国土を意味します。
また
「真宗」
というのは、無上の教えと捉えられます。
そうしますと、もし
「浄土の真宗」
があるのなら、
「穢土の真宗」
があってもよいと思われますが、
「穢土の真宗」
とは何でしょうか。
それは、釈尊の説かれた仏教がまさしくそれだといえます。
したがって、釈尊の説かれた仏教に対して、浄土の仏教があると見ることが出来ます。
このように見れば
「謹んで浄土真宗を按ずるに」
という言葉は、
「謹んで阿弥陀仏の教えを按ずるに」
と読むことが出来ます。
すなわち
「浄土真宗」
とは阿弥陀仏の教法そのものなのです。
そして
「浄土真宗に二種の廻向あり」
と言われます。
これは、阿弥陀仏の仏教は二種の廻向から成り立っているということです。
では、その二種の廻向とは何でしょうか。
一つは、衆生を浄土に往かしめる廻向(往相廻向)、いま一つは浄土に生まれた衆生を再び穢土に還らしめる廻向(還相廻向)です。
この二種の廻向によって、阿弥陀仏の仏教は成り立っています。
そしてここに、親鸞聖人の思想の根拠があります。
この阿弥陀仏の教法は、総序において
「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
と簡潔に示され、阿弥陀仏の教法が説かれた『仏説無量寿経』こそが真実の教えだと述べられます。
そしてこの教えこそ、末法の時代においても衆生を仏果に至らしめる唯一の仏教であると見らます。
では、その阿弥陀仏の往相廻向の教法とはいったい何なのでしょうか。
それは、私たち凡夫を往生せしめるための、教と行と信と証を廻向する法です。
教えとは、釈尊の説法のことですが、その教えは一切衆生を浄土へ往かしめるために、阿弥陀仏が釈尊を通して浄土の真実を説かしめたものです。
故に、真実の教えとなります。
ここに往生廻向の
「教」
の意味があります。
「行」
は阿弥陀仏が名号となって直接に衆生を救済して下さる働きをいいます。
これを大行と呼びます。
ただし、その真実を私たちに教えてくれる教法がなければ、その大行は私たちには伝わりません。
「南無阿弥陀仏」
の真実を、私たちに語る教法がなければならないからです。
その教えは釈尊によって説かれていますので、この釈尊の行為がまた
「真実の行」
となります。
釈尊によって説かれた阿弥陀仏の大行を、そのごとく信じることが
「信」です。
ただしこれは、この私を救おうとされている阿弥陀仏の大悲心(大信)が私の心にきたるということですから、その信は大行と大信を廻向されて生じる心となります。
ですから、信じている信そのものが廻向されたことになるのです。
この信が私に成立すること、それを獲信と呼んでいますが、獲信のその瞬間に阿弥陀仏の心に摂取されている自分が信知させられるのですから、その信はそのまま
「証」
に至ることになります。
したがって、証そのものがまさしく阿弥陀仏の廻向になるのです。
このように、教・行・信・証のすべてが阿弥陀仏の廻向法によるものなのです。
親鸞聖人の示された
「浄土真宗」
の意味とは、このようなことだといえます。