よく「他力」という言葉を
「他人まかせにする」、
「他人をあてにする」
という意味で一般的に使われていますが、本来他力という言葉はそのような意味で使うのではなく、
「私が成仏するかどうか」
という時に語られる言葉なのです。
親鸞聖人によれば
「色もなく、形もなく、言葉で言い表すことも、想像することも出来ない」、
「如」
と言い表される真実なる存在が、生きとし生けるものに対して、自ら
「南無阿弥陀仏」
という名をなのり、
「仏の国土に生まれたいと願い、南無阿弥陀仏と称えよ」
と呼び続けていて下さるのだそうです。
そして、その仏さまのみ教えに出遇う者は、厳しい修行を行うことによって自ら迷いを断ち切るのではなく、仏さまの側からの
「念仏せよ、救う」
と誓われた尊い願いのはたらきによって、間違いなく仏と成らせて頂けるのです。
この願いの働きのことを、
「他力」あるいは「本願力」
というのです。
そうすると、他力とは世間一般で誤解されているような
「他人まかせ」
のことではなく、迷いのただ中にいる私を救うはたらきのことであるといえます。
言い換えると、私の身の事実に目覚めさせると共に、真実を喜ぶ心を起こさせて下さる願いのはたらきのことであると言えます。
また、この仏さまの願いとは、私たちが日頃考えているような
「病気が治りますように」
とか
「(自分勝手な)願いがかないますように」
という自己中心的なものではありません。
煩悩にまみれ、自己中心的な生活を送っているこの私を
「間違いなくお浄土にまれさせずにはおかない」
と、まさにこの私のために誓われたものに他ならないのです。
私が願うに先立って、既にして私を願いの目当てとし、私を支えて下さる無限なる働きを、「他力」という言葉で味わい、喜んでいきたいものです。