『春彼岸 仏の光のあたたかさ』

 親鸞聖人は南無阿弥陀仏という仏さまを「光」の仏さまとして受け止めておられたことが、その著述から窺い知ることができます。

「光如来とは阿弥陀仏なり」

という言葉がそれです。

 これは、まず阿弥陀仏という存在があって、その阿弥陀仏自身があたかも灯台のように周りに光を放っているということではありません。

光のほかに阿弥陀仏という存在があるのではなく、光そのもののはたらきが阿弥陀仏なのだということです。

では、その光は私たちの上にいったいどのようにはたらくのでしょうか。

 たとえば、いま自分のいる部屋から全ての光が取りはらわれて、真っ暗になったとします。

その時、私たちに出来ることと言えば、手さぐりで部屋を出て行くことくらいのものです。

まさに、光がない時の私たちの生き方は、手さぐりをしながら生きる他にはありません。

今ここでいう

「手さぐりの生活」

とは、自分の判断、自分の体験だけを頼りにして生きていくということです。

 ところが、自分の判断、自分の体験だけを唯一の頼りとして生きて行くということになりますと、私たちはどうしても物の見方が一面的になってしまいます。

つまり、自分の体験にとらわれてしまって、なかなかものごとの本質が見抜けなくなってしまうのです、しかも、その手さぐりの生活では、周囲のことだけでなく、自分自身の姿さえも実のごとく見ることが出来ません。

また、自分が見えないということは、ひいては自身の人生そのものを受けとめ、見通す目が持てないということにもなります。

 

阿弥陀仏が

「光の仏である」

ということは、そのような私に、この人生において何が根本問題であり、何が枝末の事柄かを見通す目を与えるはたらきをして下さるということです。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を「尽十方無碍光如来」という言葉でも讃嘆されますが、これは南無阿弥陀仏が

「あらゆる世界(尽十方)、あらゆる存在(無碍)をことごとく光あらしめる」

仏さまだからです。

そして、私たちはその

「尽十方無碍」

なる光によって、人生の全体を見渡し、見通す目をいただくことによってはじめて、人生における確かな方向を持った歩みを成すことが出来るのです。

このような意味で、もし阿弥陀仏教えに出遇い、その光に照らされるということがなければ、何に躓(つまず)いたのかわからない、何にぶつかったのかわからないままに、右往左往しながら、この一度限りの人生を空しく過ごし、終えてしまうのだと思われます。