「これを、鞍馬の遮那王様へ、さし上げてくれいと、おん奥の方のお伝えでござる」
小筥を前に、侍従介がいう。
平たい塗筥(ぬりばこ)である。
ゆるしをうけて、吉次は、そっと、蓋をとって見た。
伽羅(きゃら)の香が、煙かのように、身をくるむ。
白絹でつつんで、さらに、帙(ちつ)で抱いた愛らしい一帖の経本が入っていた。
紺紙に金泥(こんでい)の細かい文字が、一字一字、精緻な仏身のように、端厳な気と、精進の念をこめて、書かれてあった。
「どなたの、ご写経でございまするかな」吉次がいうと、
「されば」侍従介は、改まった。
「お従弟にあたる遮那王様の孤独を、人知れず、おいとしがられて、吉光御前様が、日頃から、心にかけて遊ばされたもの。
……その由、鞍馬へ、おつたえして賜れ」
吉次は、ちょっと、不満な顔色を見せたが、押しいただいて、ふところに納めながら、
「そのほかには?」
「おことばでもよいが――くれぐれも、亡き義朝公、源家ご一門のため、回向をおこたらずご自身も、朝(あけ)暮(くれ)に仏道をお励みあって、あっぱれ碩学とおなりあるようにと……。
おん奥の方、また、お館様からも、ご伝言にござりまする」
「承知つかまつりました。
では、これで……」吉次は、元の裏門から外に出た。
宵よりも、星明りが冴えていた。
夜は通る人もない日野の里だった。
「なんのこった……」苦労して、訪ねてきただけに、期待が外れて、彼は、がっかりした。
吉光御前の思いやりと、自分や自分の主人秀衡が考えている思いやりとは、同じ遮那王にもつ好意にしても、まるで、性質がちがっていたことを、はっきり、今、知った。
自分の主人、秀衡は、遮那王を、仏界から下ろして、源氏再興の旗挙げをもくろんでいるのであるし、吉光御前や、有範朝臣は、あべこべに、遮那王が身の終わるまで、鞍馬寺に、抹香いじりをしていることを、祈っているのだ。
なるほど、それは、遮那王の身にも、彼の従姉にも、無事な世渡りにちがいない。
だが、そうして、源家のわずかな血脈が、一身の安立ばかり願っていたら、源氏はどうなる。
平家をいつまでも、ああさせておくのか。
また、路傍の飢民をどうするかである。
彼はもちまえの東北武士らしい血をあらだたせて、さりげなく、預かって出た写経の塗筥を、手につかんで、唾をした。
「こんなもの!遮那王様に渡しては、ご立志のさまたげだ」
築地の下の溝へ向かって、砕けろとばかり、たたきつけた。
汚水にそれを叩きつけたが、とたんに彼はふと、吉光御前のやさしい姿を瞼に見た。
光ある人間のあたたかな魂へ、土足をかけたような、惧(おそ)れに襲われた。
椋の葉のしずくが、背にこぼれた。
ぶるっと、何げなく、築地のうちの屋根の棟を振り向いた。
しかし、さっきの光りものも見えない。
何の異も見出せなかった。
だが、その時、彼の耳をつよくうったものがある。
生まれて間もない嬰児の声だ。
十八公麿が泣くのだった。
その声は、ただごとでない、地殻を割って、万象の芽が、春へのび出すような力のある、そして、朗らかな、生命の誕生を、世に告げるような声だった。
「あっ……」吉次は何ということもなく、竦(すく)みあがった。
両手で耳をおおって、暗い野を、後ろも見ずに駈けていた。
※「帙」=書物のいたみを防ぐために包むおおい。厚紙に布をはって作る