投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『時代が変わっても 本当のことは変わらない』

 今から八百年ほど前、親鸞聖人が生きておられた鎌倉時代には、現代の私達が「迷信・俗信」とみなしている非科学的な占い、あるいは日の吉凶に拠って生きることが当然のことでした。

けれども、現代は「科学の時代」ですから、それらは過去の遺物として当然「なくなった」と言いたいのですが…、現状は決してそうではありません。

 親鸞聖人の教えの特色は、なぜ台風が襲来するのか、突然地震がおこるのか、伝染病が流行るのか、落雷があるのか、などといった事柄について、全く科学的な知識がなかった時代であるにもかかわらず、それら全ての迷信から解放されていたという点にあるといえます。

 では、なぜ親鸞聖人は科学的な知識をほとんど持っておられなかったにも関わらずすべての迷信・俗信から自由であり、一方多くの科学的な知識を学び身につけているはずの現代の人々は依然として様々な迷信・俗信に惑い、それらに一喜一憂するような日々を重ねているのでしょうか。

 それは、人生は不条理だからです。

なぜ私だけがこのようなつらい思いや苦しい思いをしなければならいなのか…、いつの時代にあっても私たちは例外なしにそのような問題に直面します。

けれども、この点について科学は全く無力です。

そうすると、人生の中にあってもし不条理を超えることが出来る力があるとすれば、本当の意味の正しい宗教のみだといえます。

 親鸞聖人が出遇われた念仏の教えとは、いつの時代にあっても、いかなる人々においても、不条理な人生において光を放ち、等しく生きる勇気を与える、まさに時代を超えた真実の教えであったことがうかがえます。

「念仏者の今日的課題」(2)3月(中期)

またいま一つ、念仏の声が消えつつある理由には、さらに伝統的な教学のあり方にも問題があるように思われます。

伝統教学とは「本願寺中興の祖」と讃えられる蓮如上人の教えの流れを汲むことになるのですが、ここでは蓮如上人によって確立された「信心正因・称名報恩」の義が「公式」としてことのほか重要視されています。

確かに、蓮如上人は一般の人々に難解であった親鸞聖人の教義を「百を十に、十を一に」と伝えられるように、平易に語ることに重きを置かれ、そのみ教えを「信心正因・称名報恩」という言葉で簡潔に説いて下さったのですが、蓮如上人が直接語りかけられた室町時代の人々はともかく、世襲という形で浄土真宗の教えに接している現代の人々には、実はこのことがまことに理解し難い事柄なのです。

たとえば「称名報恩」ということですが、これは当然のことながら「恩」というものを知らなければ、そこに「報いる」という行為は成り立ちません。

子どもが親の恩を知ることが出来るのは、自分が親になって子どもを育てる苦労をした時だと言われます。

したがって、それ以前に言葉だけで「親の恩を理解せよ」と言われても、経験のないことを実感するのは至難の技だといえます。

そうすると「報恩の念仏を称えよ」と言われるのですが、聴聞の場で繰り返し繰り返し「阿弥陀仏のご恩を受けている」と聞かされても、世襲という形で浄土真宗を受け継ぎ、自ら主体的な形で教えの選び取りをしている訳ではない現代の人々にとって、それを実感することは極めて困難なことなのです。

また、ただ単に「念仏を称え続けていれば、誰もがやがて必ず阿弥陀仏のご恩を実感出来るようになる」という訳でもありません。

したがって「報恩の念仏を称えよ」と言われると、恩を知り得ない者からはむしろ念仏の声が消えてしまうことになるのだと言えます。

「法によるべし」(中旬) 年賀状は終わり

中央仏教学院講師 清岡隆文さん

大砂漠を越えて中国に仏教が伝わり、大海を乗り越えて日本に仏教がもたらされた。

実にインドから中国、中国から日本への仏教の伝わり方ひとつをとってみても、その背景に大変なご苦労があった。

もちろん伝えられた教えは、私たちに本当に生きる意味と喜びと安らぎを与えてくださる。

 そういう教えを説いたお経さまですから、お経の本は頭の上でおしいただいてから開くことが私たちの心構えです。

やはり心の問題が説かれているお経さまですから、心向きからしてその姿勢が大切なのです。

多くの人たちがいのちがけで仏教を伝えてくださり、しかもその教えはお釋迦さまが説こうか説くまいか悩まれた末に、やっとお説きくださった尊い教えですから、お経さまはおしいただくよう心がけてください。

 さて、いったい仏教は何を説いているのかということについて話を進めていきますと、これはまずもって、一度きりしかないこの世の人間としてのいのちを誰もが充実して、本当によかったというような、生きがいを持って生ききれるような一生でありたい。

だからこの人生を本当に楽しく、喜びを持って生ききれる生涯であってもらいたいというように、誰もが願っていることなのです。

 ところが、残念ながら誰一人としてなかなかこれを百%達成出来ない。

誰もが避けて通りたい悲しみ苦しみというものを背負わなければならない。

苦しみのない人生を願っていながら、苦しまなければならない。

悲しみなんか経験したくないと思っても、次から次に悲しいことが起きてくる。

 ですからこの世の中、幸福尽くしで生き抜こうとしても、なかなか幸福ばかりで人生を終わらないということが現実です。

なぜそうなのかということを先ず問いかけてくださって、では本当に私たちの人生の中には幸福はないのかということを問いかけてくださるのです。

 申し上げておきますが、お経さまの中には幸福という言葉はほとんどありません。

したがって、仏教は私たちの考えているところの幸福とか不幸とか、そういう物差しに当てはめて考えるような人生のとらえ方に対して、もう一度考え直すべき点があるのではないかということを教えてくださっているのです。

 私の母は八十八歳ですが、今でも頑張って年賀状を七十枚書いています。

「もう今年でやめよう」と毎年年賀状の発売時期になると言うのですが、やっぱり書いてます。

元気だから書けるのですけれども、母のかつての同級生の女性の方から届けられた今年の年賀状の末尾に「今年で年賀状は終わりにさせていたただきます」と書いてありました。

 ああなるほど、八十八歳だからもう出すのが大変なんだなと家族で話しまして、私も母に「もうお母さんも来年の年賀状は、もし出すにしても最後に『今年で終わります』って書いたらどうなの」と言ったのです。

すると母は「一枚も届かないのは寂しい」と言いました。

 一枚も出さないでたくさん欲しいというのが母の本音なのです。

そんな都合のいいことってありますか。

たくさんもらった人はその分だけ出したはずですよ。

母も七十枚出したから七十枚もらって、それを一枚ずつ読みながら楽しんでおりますから、これがけっこう母にとっての喜びなのだと思ったりします。

最近、幼稚園に通っている子ども2人が同じ幼稚園に通っている子どもの母親に殺される

最近、幼稚園に通っている子ども2人が同じ幼稚園に通っている子どもの母親に殺されるという悲しい事件が起きました。

他にも子ども達が事件に巻き込まれて命を落としたり、実の親から虐待される等の問題が後をたたず、毎日のように新聞やテレビで痛ましい出来事が伝え、流されています。

 これらの報道に接するたびに、悲しい思いにかられると共に、なぜこのような事が起きるのだろうかという疑問が生じます。

私達は今の時代、物に不自由することのない生活を送っています。

しかし、物が豊かになるにつれて同時に心の豊かさというものを失ってしまったのではないでしょうか。

 よく、法事に行ったときにお年寄りの方とお話していると、子どもの頃の話になります。

当時は貧しく、今のようには物がなく、法事があった時などに、お仏壇にお供えしてある果物やお菓子を後から兄弟で分け合って食べた事や、近所同士で助けあっていたということを聞きます。

 また、よくお寺に連れていかれ、仏さまのお話を聞いていたと話されていました。

昔は貧しくともお互いに助け合い、物も分け合いながら生活を送り、またお寺で仏さまの話を聞く機会があった中で豊かな心が育っていったのではないでしょうか。

 今の時代、近所同士のつながりや核家族化で兄弟のつながりが失われつつあります。

またお寺に行く機会も減りつつあります。

今こそ、私達はもう一度、つながりというものを考えて行かなければならないのではないでしょうか。

この人と人とのつながりの中で、私達は心や命のつながりを学ぶのではないのでしょうか。

「いのちのつながり」を大事にしていきたいものです。

『時代が変わっても 本当のことは変わらない』

 昨今、テレビ・新聞・雑誌等では、「占い」がブームになっているように感じられます。

毎朝テレビをつけると「今日のあなたの運勢は…」等々、どのチャンネルを見ても、そのような類のものを多く見かけます。

それは、「占い」を放映したり掲載したりすれば、視聴率も売り上げも上がるからだと思われます。

 浄土真宗では「宗風」に明記されているように、「占いなどの迷信に頼らない」のですが、こう頻繁にテレビ・雑誌等で目にすると、つい気を止めてしまいます。

先日、「今日の運勢欄」で自分の誕生月を見ると『金運よし、健康運よし』でした。

それを見た後に、「今日はいい日なんだ」と思う自分がいました。

 けれども、よくよく考えてみると、もし占いの内容が悪ければきっとその日を嫌な気持ちで過ごしていたでしょう。

占いの言葉によって一喜一憂している姿は、大げさに言うと、その一日を占いの言葉によって支配されているということになりはしないでしょうか? 私はそのような人生には何とも言いようのない空しさを感じます。

 昔も今も同じように様々な迷信によって振り回されている人間の姿があります。

仏さまのみ教えとは、いつの時代にあっても私達に深く因果の道理をわきまえることを通して真実に目覚めさせ、様々な呪縛から解き放ち、今いただいているいのちを生き生きと輝かせて生きる道をお示下さるものです。

「念仏者の今日的課題」(2)3月(前期)

「念仏の声が聞かれなくなってきたこと」の原因は、ヨーロッパ型の教育による影響だけではなく、近代思想の流れを受けて、それに応えようとしている教学そのもののあり方にも見られます。

端的には、現代教学では念仏の意味についてあまり語られることはなく、教えの中心はどこまでも「信心」に置かれています。

したがって、念仏について話されることはほとんどなく、真実信心のことばかりが説かれるのですから、自然と人々の口から念仏が出なくなってしまうのです。

また「信心」が語られるということは、私たちの「心」が問題になるということです。

心が問題になるということになれば、その教学は必然的に「人間的な生き方」が中心課題になります。

具体的には、この世の中をいかによく生きるか。

あるいは、信心を通していかに自分の心を清らかにするか、ということが関心事となります。

その結果、信心によってこそ「同朋の心」は成り立つのであって、信心による純粋な生き方とは何かを問うことが、現代社会の抱える様々な事象と重ねて論じられることになります。

阿弥陀仏と私の関係をこのように信心の中でのみ問いますと、現代を生きる人々にとっては、取り上げられている社会事象が具体的であるために、その教えをよく理解することができるかのように感じられるのです。

けれども、このように「信心を中心に現代を生きる」というような視点から教義が構築されてしまいますと、当然のことながら「念仏の喜び」については自然に語られなくなっていきます。

ここに念仏の声が聞かれなくなっているいま一つの理由があるように窺われます。