投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「法によるべし」(上旬) 生と死が紙一重

======ご講師紹介======

清岡隆文さん(中央仏教学院講師)

昭和十五年大阪府生まれ。昭和三十九年神戸大学文学部史学科卒業後、十二年間大阪府の高校で教壇に。その後、龍谷大学文学部仏教学科に入学、同大学院に進学。

以降、浄土真宗本願寺派の基幹運動推進員、勧学寮に奉職。

現在、中央仏教学院講師として二十五年目を迎えられています。また、大坂府吹田市にあります大光寺のご住職でもあられます。
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中央仏教学院講師 清岡隆文さん

 去年の九月にシルクロードに行ってきました。

このところシルクロードブームで、去年一年間、NHKで「新シルクロード」という番組が放送されました。

 一九八○年代に最初のシルクロード特集がNHKで取り上げられたんですが、前後して平山郁夫という有名な日本画壇のリーダー的に発ち派におられる方が、自らシルクロードに行き、スケッチをなさって、それを日本に持って帰ってアトリエで感性なさった。

彼の代表的な絵の中に、シルクロードを題材にされたものが何作かございます。

 そういうことで、じわじわとブームになって、去年もシルクロードに行かれた方はけっこう多いんですよ。

だから私も「行きませんか」とお誘いしたら、あっという間に二十五人の方が集まって下さって、一緒に行って来たという訳です。

 シルクロードというのは、名の通り中国のかつての特産品であった絹が、砂漠の中の細々と続く道筋をたどって西洋に運ばれていき、見返りに西洋の珍しい物が貿易商人たちによって中国へもたらされるという、貿易商人が行き来する交通路として開かれたものです。

 中央アジアと申しておりますが、とにかく茫々(ぼうぼう)たる、どこまで続くかわからないほどの砂また砂の大砂漠でございます。

大阪でも時々あるんですが、野外に駐車している自動車の屋根が白くなっていて、白い手拭いを持って来てスッとふくと黄色くなるんですよ。

これ黄砂(こうさ)と言ってますが、何とその砂漠から気流に乗って日本にたどり着いて降ってくる訳ですよ。

 その発生源になっている所がタクラマカン砂漠とかゴビ砂漠。

とにかくすごいところですよ。

三百六十度、グルッと一回見渡して障害物が何もない。

三百六十度地平線が見える。

ところが一歩間違えると死の砂漠です。

迷い込んだらとてもじゃないが、生きて出られない。

どれほど多くの人たちが亡くなって行ったかも知れない。

 まさに死と生が紙一重の道を通って行き来した人たちが、やっとの思いで中国にいろんな品物を届けたんですが、その同じ道をたどってお坊さんが仏教を中国に伝えてくださったんです。

だから仏教が私たちのもとに伝えられるということには、実に想像もできないほどたくさんの方々のいのちがかけられている訳です。

 だいたい日本から中国に渡るというのも、大きな海を渡る訳ですから、その当時の船の性能や航海技術を考えてみても甘くはないですよね。

日本海を生きて渡れるかどうかわからない。

だから、ずいぶん遭難したり、難破したりして亡くなった方もあるに違いない。

「生きててよかった」(下旬) 死ぬまでまなぶ

ノンフィクションライター ジェフリー・S・アイリッシュさん

私には決意したことがあります。

まず、今の内に周りの年配の友人たちから学ぶことです。

これは知識とか知恵とかはもちろんだけれど、それよりも生きる姿勢みたいなものを学びたいと思っています。

 その意味で、自分の中で見本になっている大事な人が一人います。

フジおばんって呼ばれてる人です。

フジおばんは九十六歳で一人暮らし。

風呂は外にある五右衛門風呂で、一人で沸かして入ってます。

もう七十年も前に自分の旦那さんを亡くして、それからずっと子どもたちを養いました。

 フジおばんはすべてのことについて感謝の気持ちで生きているような人です。

私はフジおばんより五十年程若いですけど、今からでも彼女のように感謝の気持ち中心に毎日を生きたいというのが私の決意の一つです。

 次に、相手の悪いところを探したりするんじゃなくて、何よりも相手のいいところを先に信じることです。

特にフジおばんは人の悪口とか、そういうことを絶対に言わない人ですし、田舎でも都会でも、私が出会ってきた人の中には、他人のことを悪く言うような会話に参加しない、そういう会話にもならない人たちがいました。

 そういう人に私もなりたいんです。

みんなになってほしいっていうよりも、自分がなりたいっていうことです。

ちなみに、フジおばんは私が外国の人だって気付いていないようです。

そういうのも、なんかすばらしい人だなって思うところです。

 あとの決意っていうのは、自分もコミニュティーになるだけ参加したいということです。

それは土喰にしても、川辺にしても、鹿児島にしても責任がとれるだけは自分がしたい。

先に自分で気付いて、自分が責任をとりたいということです。

それと学ぶことは続けたい。

死ぬまで学ぶ姿勢で生きたいですね。

 それから、文章を通して日本の田舎の良さを日本人にわかってもらって、また英字新聞とか雑誌とかそういうところでも、外国の人に田舎の良さを語り続けたいと思います。

それでこういうのは、みんなにこうあるべきだって言うんじゃなくて、自分に言い聞かせる、自分だけの決意なんです。

 皆さんに一つお願いというか提案があります。

若い世代に話をすることはとても大事だと思うけども、それでも本当に堂々と自分が正しいと思う暮らし方、生き方、自分が誇りに思える姿勢を、話よりも見本となって若い世代に見せてほしい。

私にとってのフジおばんみたいに。

 見本になる程効果的なものはないと思う。

もちろん、若い世代は心配だとか、若い世代は期待できないとか、若い世代にしか期待できないっていう考え方もあると思うけど、そういうことを考えたり語ったりする前に、自分たちの暮らし方、自然や周りの人に優しいこととか、そういうことで我々みんなが見本になれば一番いいと思います。

「一寸先は闇」のその先に 限りない光の世界がある

 「一寸」というとわずか3.3cm程ですから、それくらい先のことなら分からないことはないだろうという気がします。

けれども「やはりその通りだな…」という体験をしたことがあります。

日頃、キャスター付きの椅子に座って仕事をしているのですが、よく確かめもせず後ろ向きに座ったところ、気付いた時は視界に天井が映っていたということがありました。

 あまりにも勢いよく座ったために、キャスター付きの椅子は別方向に移動してしまい、そのままひっくり返ってしまったという訳です。

幸い、床に直撃した尾てい骨にひびや骨折はありませんでしたが、強打したために夜うつ伏せで寝始めても無意識に寝返りを打ってしまうので、朝までに痛みのため幾度も目が覚めて熟睡出来ないという日々がひと月余りも続きました。

 椅子に腰を降ろすその直前まで、その夜から熟睡出来ない「悪夢の日々」が始まることなど思いもよりませんでした。

まさに私にとって「一寸先は闇」であったといえます。

まだこの程度のことで済めば良いのですが、一瞬の事故や災害によって、それまでの人生が激変したり、最悪の場合いのちそのものを終えてしまう人もあったりまします。

 このように、私たちの未来は「闇」としか言い表しようのない「不確かさ」の中にあります。

しかも、このいのちはいつまで生きられるのか誰も保証してくれませんし、終わったらどこに行くのかもわかりません。

そのことが、しばしば日々の生活の中に不安の陰を落としてくるのですが、そのような私たちの生活に明かりを灯し、進むべき道を照らし、そして導いてくれる限りない光の世界を「浄土」といいます。

仏教講座2月(後期)「念仏者の今日的課題」(1)

 ところが、西本願寺教団では長い間スローガンに「念仏の声を世界に子や孫に」と掲げてきたものの、浄土教で最も大切なその「念仏の声」が、昨今人々の口から出なくなってきています。

今から三十年ほど前までは、ご門徒の方が本堂にお参りされるとその口から南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏という念仏の声が自然に称えられていました。

現在は、儀式の場では念仏が聞かれないこともないのですが、かつては当然のように念仏の声が聞かれた葬儀や法事の場でも、合掌する姿は見られても、念仏の声はあまり聞かれなくなって来ているというのが現状です。

 その原因の一つは、私たちが受けている教育にあるといえます。

私たちがいま受けているのは、基本的には明治の半ば頃から始まった近代化されたヨーロッパ的な考え方です。

したがって、今日の日本人はすべてこの近代教育を受けていることになります。

では、その近代教育で私たちはいったい何を学んできたのかというと、端的には「理性的・合理的なものの考え方」だといえます。

その結果、理性的に判断して、とても真実だと思えないようなことは「信じるに値しないこと」と排除してしまうことになります。

 ところで、浄土教では人々に「西方に阿弥陀仏の極楽浄土がある」と教えます。

けれども、近代教育を受けて、理性的な判断をすることが正しいことだと考えている人は「南無阿弥陀仏と念仏を称えると、死後その極楽に生まれます」と説かれても、自分自身で阿弥陀仏や浄土を確認することが出来ないので、「いま念仏を称えてください」と要請・指示されると称えることはあっても、生活の中で、無意識的に常に念仏を喜ぶという生き方は、ほとんど不可能になっているようです。

これが「念仏の声が聞かれなくなっている」ことの大きな原因の一つであるように思われます。

 では、近代的な教育を受けた人々の口から再び念仏の声が聞かれるようにするにはどうすれば良いのでしょうか。

南無阿弥陀仏はまた南無不可思議光とも言い表されますが、「不可思議」とは「思議すべからず=思いはかるな」つまり阿弥陀仏の存在を理性的に理解しようとしても、私たちには永遠に理解し得ないということを教えてくれている言葉です。

例えば、地球は一日一回転(自転)しながら、一年かけて太陽の周りを回って(公転)います。

けれども、私たちの眼にはどう見ても太陽が東から上り西に沈んで行くようにしか見えません。

では地球は自転していないのかというと、やはり自転しているのですが、おそらく私には地球が自転していることは生涯自らの感覚ではとらえることは出来ないと思います。

 このような視点から、改めて念仏とは何かを問い直すと共に、かつてのように念仏者の集まる場においては「澎湃(ほうはい)として」念仏が称えられる光景が見られるよう努めることが、今日の念仏者の大きな課題ではなかろうかと思われます。

「生きててよかった」(中旬) 社会のかじ取り

ノンフィクションライター ジェフリー・S・アイリッシュさん

私は子どもたちがこの雰囲気にうまく溶け込めるだろうかと心配したんですが、それはまったくの杞憂で、私がいなくてもおばさんたちと若い女性たちで話し出してすぐに溶け込んでいました。

 後日、学生たちに宿題として感想文をお願いしました。

それを休憩時間とかに読んでいたら、泣きたくなるぐらい感動しました。

例えば「私はおばちゃんみたいに生きたいと思った」とかですね。

これは自分のおばあさんの良さを思い出したんでしょうね。

もう一人が「早速次の日、出水の祖父の家に行きました」とか、また別の子は「最近忙しくて全然会えない私のおじいちゃんやおばあちゃんのことを考えて、もっと話す機会を作って、一緒に何かしたりしようと思った」、そういう効果があってとても嬉しかったです。

 これは彼らのような高校を卒業したばかりの子たちにとって、自分のおじいさんやおばあさんと接するということが、自分らしさとかこれからの自分のこと、それから特に自分の家族とか故郷を誇れる、あるいはその素晴らしさに気づくための大事な一歩になると思うんです。

 私がこの講演で話したかったことの一つは、社会に出るということです。

日本には「社会人」という言葉があります。

この「社会人」という言葉が日本で使われる場合、「学校を出て、社会に出るだけで社会人になる」ということになっています。

私はそれとは違った考えというか定義を持っていまして、社会に出るだけで社会人になるんではなくて、社会に本当に参加できる自分になって、初めて社会人になるということが言えると思ってるんです。

 社会に参加するっていうのは、例えば私が子どもの時に見ていた母親の姿は、本当に社会に参加して、時には変えようとしていましたし、時には支えようとしていました。

そういうことなんですよ。

ですから私もほんの三、四年前から、やっと社会人になれたという気がするんです。

私が住む地域の土喰のことにしても、川辺のことにしても、鹿児島のことにしても、やっと自分が一人の人間として、社会のかじ取りに少し参加しているっていう気持ちなんです。

 その気持ちから、いま川辺でやろうとしている一つの運動というのが、最近流行っている言い方なんだけれど「地産地消」ということです。

身近なところで作られた物を、身近なところで消化するということですね。

 私が食べているもののことで、私自身がびっくりしていることがあります。

例えば加世田の生協に行って買い物をすると、当然鹿児島県内の物が売ってると思ったら、そうじゃないんですよね。

一部の肉類は案外近くから来てるけれど、不思議なことに野菜なんかは逆にもっと遠くから来たりしています。

 皆さんも知っているかもしれないけど、今度川辺の方に大手のスーパーができます。

そういう大きなところができると、個人の店が危なくなります。

ということで、川辺の町報に個人のお店、例えば十二月だったら鶏肉屋の紹介、次はパン屋さんの紹介とかを載せたりして、なるべく身近なところでみんなが買い物しやすいようにと、そういう取り組みをしています。

日本中が、例年になく厳しい寒さの冬を迎えています。

日本中が、例年になく厳しい寒さの冬を迎えています。

報道によると、戦後観測史上、一番の寒さになるとのことです。

これは南国鹿児島も例外ではありません。

特に、昨年12月22日に降った88年ぶりの大雪には本当に驚きました。

「まさか鹿児島で雪かきをすることになるとは…」 境内の雪をかきわけながら、ふと6年前のことを思い出しました。

 当時、私は北海道の函館別院に勤務していました。

冬を迎えると、雪かきは毎日の日課です。

しかし、南国鹿児島で生まれ育った私にとって、当然それは初めての経験でした。

先輩方からいろいろと仕方を教えてもらうものの、慣れない作業に音をあげて、いつも「鹿児島に帰りたいなぁ」と思っていました。

 ところが、6年ぶりの雪かきは私に「懐かしいなぁ」という思いを抱かせました。

しかも、自分でも意外なほど要領よく作業が進みました。

6年前は嫌々ながらしていた雪かきが、いつの間にか私にとって大事な経験となっていたのでした。

今頃になって、感謝の気持ちが生まれて来ました。

 「人生には無駄なことはひとつもない」という言葉を耳にしたことがありますが、本当にその通りだと改めて気付かされたことでした。

同じ作業をするにしても、心持ち一つで思いは違ってきます。

出来れば「お蔭さまで…」と言えるような生き方でありたいと思います。