投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「一寸先は闇」のその先に 限りない光の世界がある

 私たちの生活に欠かすことのできないものに、光の存在があります。

全てのものはこの光に照らし出されることによってその姿を表し、また私たちの目は光の力を借りることによってあらゆる情景を見ることができるのだと言えます。

そのような意味で、見るというよりも見えると表現する方が本来的な言い方だと思います。

 けれども、見えるということに慣れ過ぎてしまった私達は、目に見えている部分だけがその全てであり、見えていないものに対してはなかなか理解を示そうとはしないものです。

見えて当たり前と思う心に気付かされて初めて、本当は何も見えていない闇の只中にいる自分であると知らされます。

 思うに、そこに気づいていくところに限りない光の世界へのうなずきが生まれるのではないでしょうか。

仏さまの光、真実の光というのは、ものを照らす灯りとはまた違い、私たちの内なる心を照らしてくださいます。

それは、物事の本質に目を向けるということの大切さを教えてくれているのだといえます。

 外見ばかり見ていた私の目線が、心を見つめるようになるとき、これまで目をつぶってきた、自分の都合のいいままに生きようとする在り方が問われるようになります。

「一寸先は闇」という身の事実に目覚めるとき、仏さまの教えは私の人生の道しるべとなりひかり輝いてくださいます。

仏教講座2月(前期)「念仏者の今日的課題」(1)

 親鸞聖人は『涅槃(さとり)に至る真実の因はただ信心である』と述べておられます。

そこで、浄土真宗においては「信心」が最も大切であるといわれています。

けれども、信心が重要だからといって、もし「信心」でもって教団を統一しようとすると、非常に難しい問題に突き当たります。

例えば「あなたが信じているその信心の内容を聞かせてください」と問われたらどうでしょうか。

おそらく、誰もがそれぞれに自らの信心の味わいを述べられることになると思うのですが、それが全く同じということなどありえません。

それは「念仏をどのように信じるか」ということでその内容が変わるからなのです。

そのため、もし「信心」で教団を統一しようとすれば、おそらく教団そのものがバラバラになってしまうことと思われます。

 親鸞聖人は「一切の諸仏は阿弥陀仏の教えを説くために世にお生まれになる」と述べておられます。

だからこそ、釈尊は阿弥陀仏の教え、つまり「念仏の法」を説くためにこの世で「仏」になられたのであり、それ故に『無量寿経』という経典の終わりに示されるように、釈迦仏の次に仏になる弥勒菩薩に「一声」の念仏の真実を付属されたのです。

 ではなぜ「念仏」なのでしょうか。

それは、阿弥陀仏はその本願に『本願を信じ、念仏を喜ぶ一切の衆生を仏にする』と誓われているからで、この念仏の素晴らしさに勝る仏法は他には存在しません。

だからこそ、釈尊は弥勒菩薩に念仏の真実を伝えられたのです。

これを受けて、曇鸞大師も「共に弥陀の浄土に往生出来るのは、同一に念仏しているからだ」と説いておられます。

このような意味で、私たちの浄土真宗の教えの中心は、実は「念仏」であるといえるように思われます。

それはまた、「歎異抄」第二条に

『親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり』

と、「ただ念仏して弥陀にたすけられよ」と伝えられることからも窺い知られます。

「生きててよかった」(上旬) 食べるのに必死

======ご講師紹介======

ノンフィクションライターのジェフリー・S・アイリッシュさん

ノンフィクションライターのジェフリー・S・アイリッシュさんは昭和35年アメリカ・カリフォルニア州生まれ。

エール大学卒業後、清水建設に入社し来日されますが、自分らしい生き方を求めて平成2年に鹿児島を訪れ、甑島で漁師生活を体験。その後、京都大学、ハーバード大学の大学院で学ばれ、7年程前に川辺町へ移住。

現在、ダイオキシンの無害化の仕事に携わりながら執筆活動をされています。

著書に『アイランド・ライフ−海を渡って漁師になる・甑島日記』『漂泊人からの便り』などがあります。

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ノンフィクションライター ジェフリー・S・アイリッシュさん

 いま私がいる川辺(かわなべ)というところは、かなり自分に合ったところなんです。

私はそこにようやくたどり着いたからこそ、八年も住んでいるんですね。

いずれは、例えば母が年を取っていく中で、母の近くに一、二年ぐらい住みたいというのはありますけれど、今のところはすぐにでも次に行こうと思うようなところは特にないですね。

なるだけ川辺をベースにしていたいと思います。

 私が川辺の生活のどこにひかれているかというと、ひとつは人間と自然環境との接し方ですね。

特に田舎のおじいさん、おばあさんは自然というか、自然のリズムの中で生活してます。

だからそれは環境に本当に優しい生き方なんです。

たまにビニール袋とかを燃やしているおじさんがいたりしますが、ほとんどの人は環境に負担のない生活をしています。

 それから田舎だと社会に参加できます。

例えば東京なんかに行ったら、強い気持ちを持っていてもそれを表に出すとか、自分の住んでいるところ、コミュニティーに影響を与えるというのはかなり難しいと想像できます。

でも田舎であればある程、人が少ないことによって、自分が社会あるいはコミュニティーの中に参加したり、影響を与えることができるんです。

そういう話を高校生に講演とかで話したりします。

高校を卒業してから、自分の価値観とか、自分の優先順位とかを確認していくのがその人生だと思いますので。

 先日私はネパールに行ったんですが、そういうところを見てくると、本当に多くの国の多くの人は、食べるのにも必死だというのがわかります。

我々みたいな今の若い世代は、前の世代が頑張ってくれたことによって、そういうことは一切考えることなく、かなりぜいたくなレベルで自分の可能性を考えることができるということです。

 鹿児島別院の近くに、「アイデア室」という短大みたいな感じの一年間の学校があります。

そこは高校生を対象に、高校を卒業して社会に出るまでの間、これからどうしようかと迷っている子どもたちをたくましくして、そしていま自分たちが住んでいる日本を知り、日本という国を本当に誇れる教育を目的とした学校です。

 私はそこで一年ぐらい前から、私が創った田舎学というのを教えています。

その一年間で私が楽しみにしてたことが数週間前にありました。

ある講義の一環で、十九歳ぐらいの女の子と男の子をみんな連れて、川辺の入り口付近で九十二歳の竹細工の友人とか、石切り場の友人のところを訪ねていきました。

 私の住んでいる土喰(つちくれ)の集落には、お茶を飲む時間に連れて行ったんです。

それで私、おばちゃんたちに声をかけました。

漬物だけでも家から持ってきてくれればと思って公民館に二時頃行ったら、朝八時からみんなが準備してたそうで、ふくれ菓子を食べてました。

あと若い人が来るというんで、張り切ってコーヒーゼリーとか、里芋の煮物とかを作ってきて、かなりのご馳走が並んでいました。

『真あたらし いのち響かせ 南無の声』

 生まれて間もない我が子を抱いて「お母さんよ!」と呼びかける母親の顏は微笑みに満ちています。

けれども、それを聞いている赤ちゃんは、ただニコニコしているだけで、言葉の意味を理解することなど出来ませんし、たとえどのような「天才」であっても生後数カ月で「お母さん!」と言えた人もいません。

 それなのに、どうして母親は赤ちゃんに向かって、何度も何度も繰り返し「お母さんよ!」と呼びかけるのでしょうか? 実は「お母さんよ!」という呼びかけは、赤ちゃんが自分の胎内に宿ってから誕生するまでの様々な思いや、愛情の全てを集約・凝縮した言葉で、まさに内からわき上がってきて言わずにはおれない名乗りなのです。

 赤ちゃんは、母親の愛情を一身に受けながら育まれる内に「この人こそが私を愛してくれる大切な存在だ!」ということを体感し、やがて「お母さん!」と呼ぶようになるのです。

もちろん、呼んでいるのは赤ちゃん自身ですが、そう呼ばせているのは生まれてからずっと「お母さんよ!」と名乗り続けてきた母親の願いです。

 同様に、南無阿弥陀仏という仏さまは、私が願うに先立って、私のいのちを迷いから解き放ち、「限りないいのちと限りないひかりの世界に迎え摂らずにはおかない」という尊い願いを「南無阿弥陀仏」というひと言に凝縮して、常に呼びかけていて下さいます。

このような意味で、私が「南無…」と称えるそのままが、まさに私が仏さまから喚ばれている事実そのものだといえます。

仏教講座1月(後期)

 親鸞聖人の教えにはひとつの原理があって、それは極めて簡単なものです。

その原理の構造というのは「仏が迷っている私を救う」ということです。

私が仏によって救われるという、そういう真理なのです。

ひとことでいうと、この原理が浄土真宗の教えの全てだと言えます。

 ただし、迷い続けているものに、仏の心がどうしてわかるのか、仏が私を救うという、そのことがどうしてわかるのか、この点が難中の難といわれているように、一番難しいのです。

 親鸞聖人は一方において、阿弥陀仏の救いの論理を明らかにしておられますが、その仏の働きの論理は、それほど難しくはありません。

また、他方において、人間の迷いの論理、凡夫の心の痛みが説かれているのですが、それも実に鮮やかでわかりやすいのです。

ところが、この仏の大悲に、迷っている私が、いかにして出遇うかということが、非常にわかりにくいのです。

 親鸞聖人はこの一点を何とかして私たちにわからせようとしておられるのですが、悲しいことにそれを求める心を持っていない私たちには、この点が実に難しくてわからないのです。

 

 仏教には学び方が二通りあります。

ひとつは「解学」といい、思想・知識として仏教を学ぶ在り方です。

もう一つは「行学」といい、知識として学んだことを自らの生活に照らしつつ、自分の生きる生き方というものを仏教に学んで行くという在り方です。

殊に、後者の在り方を踏まえて、仏教は「私を待っている教え」だと言われます。

それは、仏教がどこかの誰かのことを語っているのではなく、この私自身を明らかにする教えだということを意味しています。

 したがって、仏教に真剣に教えに耳を傾けていくと、そこに明らかになるのは、何か今まで知らなかったことや、新しいことではなく、私を言い当てている言葉が既にあったということです。

つまり私が自分で自分を理解する以上に、私の人間としての悲しさや愚かさが動かしがたい事実として明らかにされているのです。

それはまさに、「迷っている私の身の事実」に他なりません。

 たとえ、すぐには理解できなくても、さまざまな機会を通して仏さまのみ教えに耳を傾けることに努めて頂きたいものです。

「『御堂さん』よもやま話」(下旬) 当たり前のこと

『御堂さん』編集長 菅 純和さん

さて、私は『御堂さん』の編集長ですが、二代目でございます。

初代編集長・佐々木俊朗は、このハートフルで二回講演を致しました。

今から三年前の二月に亡くなったんですけれどね。

最期は肺ガンでございました。

肺ガンの上に、もともと喘息(ぜんそく)持ちでございました。

どちらも呼吸器系の病気です。

だから晩年は大変でしたよ。

 二回目のハートフルの講演の時に、九十分持たずに六十分くらいで切り上げたということを聞いております。

晩年は私の顔を見るたびに言ってました。

「菅君、息するって大変なことなんやで」「菅君、息するってえらいことやねんで」とね。

なぜかと言いますと、少なくとも今この瞬間で、私たちは息をする、呼吸をするということを大変なことだなんて思わないんですよ。

 ところが肺ガンですよ。

肺ガンですから、ガン細胞が特に左肺をだんだんと冒してくる。

そうすると呼吸困難になってくる。

そのうえ喘息という発作を起こします。

特に寝るとき横になっても、とても眠れたものではないんですって。

 横になって眠ろうとすると咳き込む。

咳き込んでついには呼吸が出来なくなる。

それで呼吸が出来なくなるってどういうことかと聞いたらね、「息は吸えるんだ」と言います。

息は吸うことは出来る。

息を吸うことは出来るんだけれど、今度はその息を吐き出すことが出来なくなるんですよ。

 息を吸ったままだと苦しいじゃないですか。

人間は息を吸うたら吐かなきゃいけません。

それが吐けない。

吐くために、全身のありったけの力を込めて、やっとハァッと吐ける。

でも、吐いたら今度はまた吸うでしょ。

吸うとまた同じ苦しみですよ。

それを吐くのに全身汗だらけになるんですって。

 それで一晩中夜明けまで、息を吸って、それを精一杯吐いて、また吸うて、また懸命に吐く。

これを繰り返していくんだから、夜はとにかくクタクタになるんですって。

もちろん眠れません。

そういうことで、「私はこの肺ガンになるまで、呼吸がこんなに大変だなんて思ったこともなかった」と言ってました。

 なぜ人間は人間なのかということについて、仏教では人間は神によって創られたなんてことは言いません。

そしたらなぜ人間なのかというと、人間は人間であるべき「縁」が寄り集まって、たまたま人間であるんだと考えるんですね。

たまたま「縁」によって人間であり、そしてたまたま生きるべき「縁」が全て整って、私たちは今を生きておる。

生きるという「縁」がなくなれば死ぬんですよ。

 だから呼吸というものも、私たちは意識しないけれど、この肺が勝手に動いてくれて、呼吸器が呼吸器として働くという「縁」があって、それで私たちは呼吸をし、何ら意識することもなしに生きているんですね。

心臓もそうですよね。

そうするとやっぱり、生きるということ、生き吸うということは、本当は大変なことですよ。

 その大変なこと、呼吸をするということを何にも意識しないでしているということは、本当にすばらしいんですよ。

ですから、仏教という教えは、世間で「あれは不思議だな」と言われるような「不思議なこと」を言いません。

むしろ我々が何とも思っていない、何にも意識しない、そういうものこそ本当に不思議で有り難いものなんだ、ということを教えていく教えであります。

 それが仏教だと思っています。

そういう当たり前のことが実は不思議であり、当たり前のことほど尊いものはないということを教える仏教。

その仏教の精神を、何とか『御堂さん』の誌面で表していきたいと思っているんですよ。