投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

『真あたらし いのち響かせ 南無の声』

 新年あけましておめでとうございます。

新しい年を迎え,心を新たにしてお過ごしのことと思います。

心よりお慶び申し上げます。

このように新年を迎えるということは,一般的にめでたいこと,慶事となっています。

なぜ新年はめでたいのか,少し考えてみたいと思います。

 私達は人生の節目を慶び事として祝います。

誕生日や七草,卒業や入学,結婚等,人生の中で一つ一つの区切りを過ぎたことを祝うのです。

新年を迎えるということは,昨年一年を過ごせたということ。

即ちこの一年間私の命が保たれたということです。

 そこには「私の命はいつ終わるか分からないものだ」という現実があって,そうであればこそ節目を迎えられたことへの感謝,喜びがあるのです。

そして節目というのは次へのスタートでもあります。

一年が終わってまた新たな一年が始まるのです。

 さあ,まっさらな新しい日々が私達を待っています。

どの一日も私達にとってかけがえのない大切な一日。

今年も一日一日を大切に過ごしていきたいものです。

そして,南無阿弥陀仏の念仏となって私に届いて下さる仏さまに包まれた,いのちよろこべる一日として…。

新年を迎えて,今年がどのような年になるのか,楽しみでもあり,不安でもあります。

新年を迎えて,今年がどのような年になるのか,楽しみでもあり,不安でもあります。

特に昨年の暮れに立て続けに発生した女子児童が幼い命を奪われた事件には胸が痛みます。

一昔前は「人を見たら泥棒と思え」が「人殺しと思え」とでもなってしまっている時代です。

先日鹿児島県警の県警安心メール(http://www.pref.kagoshima.jp/police/anshin_mail.htm)に登録をしてみました。

すると,多い日には2,3件の不審者情報が知らされて来ます。

想像していたよりも件数が多いのに驚くと同時に,中には首をかしげたくなるものもありました。

その大半は「車に乗るように誘われた」とか「一緒に遊ばない?」とか言うものですが,中には,「君はどこの小学校ね,何年生ね」とか「おじさんに道を尋ねられた」というものまで事例として挙がってきていました。

見ていて残念で,悲しさすら覚えました。

恐らくは児童から聞いた保護者が通報したんだと思いますが,それ以来,町で見かけた子供達に,声をかけることに躊躇するようになりました。

「声をかけられたら不審者と思え」と大人を疑うことを教えなければならない社会のあり方を皆さんはどう思いますか?

『真あたらし いのち響かせ 南無の声』

 今年も新しい年を迎えることが出来ました。

私達は普段、「今、自分が生きているのが当たり前」「日々が過ぎ去っていくのは当たり前」と思いがちですが、果たしてそうなのでしょうか。

人として生まれ、今こうして生きているということは、実に不思議なことではないでしょうか。

 その昔、お釈迦さまはガンジス河のほとりをお弟子のアーナンダと歩いておられる時、地面の砂を自分の爪の先に取られて次のように問われたそうです。

『アーナンダよ。

この爪の先の砂と、大地の砂とでは、どちらが多いか?』と。

アーナンダはお釈迦さまは「おかしなことを訊かれるものだな」と思いながらも、『爪の先の砂はわずかで、大地の砂の方が比べものにならないくらい多いです』と答えました。

 すると『そうであろう。

いのちあるものとして生まれ来る中で、人として生まれるということは、これほどわずかばかりのことである。

また、同じく人として生まれても、仏の教えにも遇うものはまたわずかばかりである。

だからこそ、しっかりとした正しい道を歩まねばならない』と告げられたそうです。

 動物や植物など、数えきれない命の中から、私たちは人として生まれてきました。

そして、目には見えない多くの不思議なご縁によって、今こうして遇い難い仏さまの教えに遇うことが出来ています。

「南無」とはインドでの発音を音写したもので文字そのものに意味はなく、中国ではこれを「帰命」と訳しています。

「浄土という、命の帰っていく世界を信じる」ということですが、阿弥陀仏という仏さまは、私が願うその前から、そして願うと願わざるとにかかわらず、いつも私の称える「南無」の声となって喚び続けていて下さいます。

仏教講座1月(前期)

 本来「真理」というものは、誰にでもわかるものであり、また真理とはそういうものでなくてはならないといえます。

したがって、もしある真理が開かれているにもかかわらず、その真理がわからないとすると、それは理解できない私の側に問題があるのだといえます。

なぜなら、私の方が真理そのものの見方を見誤っているのですから、その真理を知り得ないのは当然のことだといわなくてはなりません。

とかし、いったんわかってしまうと、「なんだ、こういうことなのか」というようになるのではなかろうかと思われます。

 親鸞聖人は二つの真理を明らかにされたと考えられます。

ひとつは、仏の究極は何かということで、それは悟りそのものの真理です。

言い換えますと、阿弥陀仏の智慧と大いなる慈悲のすべてを明らかにされたということです。

それに対してもうひとつは、人間の究極、人間の本当の姿とは何か、ということを明らかにされました。

人間というものは、悟りとは全く逆の立場にあるわけですから、迷っているのですが、その迷いとはどのようなものであるかを明らかにされたのです。

親鸞聖人はこの仏の真理と凡夫の真理を明らかにされたのです。

 ところで、実は私たちには、この二つの真理をその通りに知ることはなかなか出来ません。

したがって、親鸞聖人は私たちに、その迷っている姿の真相を明らかにして下さったのですが、私たちは迷っているそのことに自ら気づくことが出来ないのです。

そのために、親鸞聖人の書かれたものをなかなか理解できなかったりするのです。

(続く)

「『御堂さん』よもやま話」(上旬) 表紙は若い女性

======ご講師紹介======

菅 純和さん

仏教月刊誌『御堂さん』の編集長・菅純和さんは昭和26年大阪市生まれ。

龍谷大学文学部仏教学科に入学され、同大学卒業後、大阪御堂筋にある浄土真宗本願寺派・津村別院で『御堂さん』の編集委員に従事。平成14年からは『御堂さん』編集部の編集長を努めておられます。

また、大阪市にある浄土真宗本願寺派・光明寺のご住職でもあられます。著書に『御堂さん』掲載中の『仏事の小箱』等があります。

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『御堂さん』編集長 菅 純和さん

 『御堂さん』は、昭和五十三年四月に出版されたのが第一号です。

それに掲載されている写真が北御堂、津村別院の屋根でございます。

そういう写真を白黒で掲載しました。

今の『御堂さん』と比べてもらいますと、全然違うということがおわかりになると思います。

 昭和五十三年から二十七年間、おかげさまで今では東京以外から出版されている出版物の中で、日本で一番発行部数が多いんです。

特に八月号のお盆号は二十七万という数が出ました。

平常でも十万の数が出ますから、これは大変な数なんですよ。

そうなるために、どういうふうにやってきたかといいますと、いろいろございます。

 まず、今月皆さんにお配りした『御堂さん』十一月号ですね。

表紙は以前は違ったんですけれども、今ではずっと若い女性でございます。

一月と八月号では、プロのタレントさんとかモデルさんを起用しまして、他の十カ月は一般のお嬢さんを募集して掲載しております。

 しかし、これも何かと「何で表紙は若い女性でないといけないんですか。

何で年取ったらあきませんのんか」と言われるんですが、これは難しい問題なんです。

別に若くなくてもいいんです。

ただ『御堂さん』は売り物なんですよ。

別にもうけなくてもいいんですけれども、やっぱり赤字を出す訳にはいかないんです。

 そうすると、やっぱり買ってもらうということになるんですが、お年をめした方が表紙に載ると売れないんです。

それだけの理由で若い女性を起用するんですが、これもジレンマなんですよ。

だって仏教の教化誌ですよ。

 仏教の教化誌ですから、世間の価値観に迎合しては本当はいけないんです。

「若いのは良い、健康だから良い」というのは世間の価値観ですよね。

仏教の価値観というのはそうではないですね。

 若い者もやがて年老いてゆくんだよ、というふうに言っていくんですね。

人間は移り変わっていくんです。

 『御堂さん』の中には漫画のページがあります。

その漫画は関西では有名な篠原さんという漫画家に描いていただいているんですが、私はまずその方に「○○という仏教の言葉があります。

これについて漫画にしてください」と言うんです。

 十一月号は確か「不妄語」ですね。

「うそをつくな」という戒めを、仏教では「不妄語」といいますけれど、それについて漫画にしていただいて、最後に私がもう一度言葉の意味を解説しているんですよ。

 実は、その解説文の中に私の似顔絵が出てきます。

その似顔絵を見ますとね、鼻の下にひげがあるんですよ。

今の私にはありません。

去年の今頃剃ったんですよ。

平成二年から十年以上伸ばし続けたひげを剃りました。

何で剃ったかといいますと、はじめは黒々とした非常に立派なひげだったんですけど、年をとってきますと真っ黒なひげがだんだん白くなってくるんです。

いわゆるごま塩というやつですね。

 髪の毛の方は白がまじってもそんなに思わないんですけれども、ひげは黒いのに白がまじってくると非常に汚らしいんですよ。

それで、もうみっともないのでそったんですよ。

これ何で私のひげが黒から白く変わっていったのかといいますと、これは老化。

年をとっていくということですね。

 つまり人間は変わっていくということですよ。

だから世間の言葉で一番の「うそ」の言葉は何かといいますと、「あなたいつまでも変わらないわね」ですよ。

けれど、実際あれはうそですよ。

変わらないのは化け物でございます。

人間は変わるものですからね。

だから本当は仏教の教化誌というのは、若さというものを申してはいけないんですよ。

 もともとこの『御堂さん』といのは何かというと、こうして浄土真宗本願寺派のお寺の中に入ってくださる方、本堂にお参りして仏さまに手を合わせてくださる方のための本や出版物はもう山ほどあるんですよ。

いろんな出版物がありますが「お寺の門前を素通りしていく人」に対する出版物はなかったんですよ。

それで、なんとか世間一般の方に、いわゆる普通の、例えばお念仏もご信心も親鸞聖人もご存じない、そういう方に少しでも仏さまの世界とは何かということを知っていただきたい。

その入り口にでもなればという願いで作り始めたのが、この『御堂さん』でございます。

 この『御堂さん』、特に最初の方の特集にはたくさんの有名人が出て参ります。

なぜ有名人を起用するのかといいますと、これの理由はたった一つです。

有名人でないと読んでくれないんです。

同じことを言っていても、やっぱり人は名前で見るんですよ。

例えば、由紀さおりさんが出ておられますね。

これは何で由紀さおりさんに出てもらうかといいますと、まず由紀さおりさんに出てもらうかといいますと、まず由紀さおりさんが出ているというそれだけで人は注目します。

一方、これをうちの向かいのおばさんが書いてたって誰も読んでくれません。

その違いなんですね。

 それは世間の価値観なんですが、それを最大限に利用してこっちへ取り込んで、そしてその中から本当の親鸞聖人のあじわい、お念仏のあじわいを知るきっかけになってもらえればいいなという願い出作っておるんです。

「人間とはね」(下旬)生きることは苦

総合人間研究所所長 早川一光さん

 若者と検査結果を比べて、肝臓の機能が悪い、腎臓の機能が少し落ちてる、貧血が少しありますよと、そんな悪いところばっかり見つけて病名告げてみなさい。

お年寄りは眼科行ったり、耳鼻科行ったり、整形外科行ったり、胃腸科行ったり、循環器科行ったりと、病院内をカッカ回って帰ってきますやん。

それでここが悪い、あそこが悪いと荷物をいっぱい背負わされて、ショボンとして病院を出ていきますやんか。

 そんな悪いところばっかり言われて、ショボンとしたまま力尽きて出て行くような、そんなもんが病院か。

生き生きとして返すのが病院の仕事と違うか。

傷だらけになった身体を良くして病院のもんから出さすのが医者の仕事ですもん。

いっぱいがっかりさせて、いっぱい荷物背負わせて病院を出させたらあきません。

悪いところがあっても元気にして帰さなあかんでしょう。

 だからこの頃の診察は、どこかいいところが残ってないかと探して、「おばあさんの大脳はしっかりしている。

判断力もあるし、感性も豊かだ。

心臓もしっかりしている。

この若々しい頭と心臓さえあれば大丈夫」と言うてごらん。

おばあさんの目がキラキラっと輝いて、いそいそとして病院を出ていくんやで。

脳と心臓だけ守ってれば大丈夫て医者が言うたから喜んでね。

悪いところがあっても、それをいいところでカバーしていこうと、そうなって帰っていかれますやん。

それを見ててぼくは、これが医療なんやなあと思ったもん。

 病ばっかり気にして、「なんで私だけがこんな病気になった、なんで私だけがこんな苦しい目にあう」と、それを思ったときが病気だぞ。

病があるのかが当たり前、病のない人はいない。

みんな使って使って使いたおしてきた身体やからな、どこぞと悪いところはある。

病と病気は違います。

病は贓物の故障、それを気にしたときが病気。

だから病があっても一緒に付き合っていけ。

病があればこそ健康の喜びがわかると、ほんまにそう思って毎日暮らしてくれ。

 人間はいやなこと、悲しいこと、腹のたつことを並べたてたら、そりゃいっぱい出てきますよ。

だって生きていくという「苦」があるんだもん。

楽に生きるなんて思うほうが間違って。

生きることは苦ですやんか。

ずっと苦が続いているから、苦でないものに会うと、ものすごく楽に感じるのよ。

それは「楽」ではなくて、「苦」でないということ。

だから「楽」を探して「楽」に会おうと思って努力するな。

「苦」を求めて「苦」を乗り越えていこうと努力したら、必ず「楽」に会えます。

 人というものはお互い支え合って生きています。

もたれられている方が「いつまでも人の頭の上にもたれやがって、いい加減にせえ」なんてはずしてしまうと、もたれている方は倒れるけれども、自分も倒れてしまう。

だから隣の人の病気は自分の病気、お隣の人の悩みは自分の悩みと、ひしひしと思えるような人間が本当の人間なんです。