投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

やり直しのきかぬ人生ではあるが 見直すことはできる

 人生にはいろいろな場面で、別れ道のように選択を迫られることがあります。

今年一年を振り返ってみても「あそこで別な選択肢を選んでいれば…」とか、「もう一度あそこからやり直すことが出来れば、きっとうまく行くのに…」といったことがあったりするものです。

 今年一年の間に、そのような岐路に立たれたことが何回ほどありましたか? そして、その時に自分が下した判断に満足感を覚えたり、あるいは失敗だったと悔やんだり、さまざまな思いを胸に私たちは年末の慌ただしさに追われるようにして、また年を越していきます。

 けれども、どれほど悔やんでみても、私達の人生はやり直すことは出来ません。

また、その事実は決して変えることも、他の誰かに代わってもらうことも出来ないのです。

いかに不都合なことであっても、私の身の事実はこの私以外に引き受けて行く者はいません。

 考えてみますと、多くの成功体験の陰には、多くの失敗の積み重ねがあると言われます。

人生という広い視点からみれば、たとえつまづいても転んでも、それはささいなことに過ぎないものです。

 私たちの人生は、やり直しはききませんが、何度でも見直すことは出来るものです。

そしてそこから何度でも立ち上がって行くことができます。

仏教講座12月(後期)

 ここで闇と光の関係が問題になります。

暗黒の深海に生きる魚の目は退化しているといわれています。

光がありませんから、目を必要としないのです。

この場合、そこに生きる魚は、自分の場が闇だとは知り得ません。

光があるから闇があるのであり、闇があるから光があるのです。

照らす光によって、闇の存在が明らかになるのです。

人間の生き方もそうであって、真実の善が示されることによって、初めて不実なる自分というものが顕かになります。

 毎日忙しく働いている。

そのような時、ほんの少し風邪を引いて仕事を休んだとします。

このような場合、風邪はむしろ恵みであって、二、三日身体を休めることによって体力が回復し、再び元気よく働けるようになります。

このような風邪であれば、早く治りたいとは強く思いません。

治りたいと思う前に治ってしまうからです。

けれども、もし「ほんの少しの風邪」と思っていたのに、それが十日たっても一月たっても治らない場合はどうでしょうか。

そうなると、これはもう必死になって、早く治りたいと思うはずです。

また、それがさらに悪化して、不治の病だと知らされればどうでしょうか。

この時にこそ、心から一心に「何としても治りたい」と願うことになると思います。

 さて、私たちは仏教を学ぶことによって、煩悩に迷う原因を教えられ、同時にその迷いを断ち切る道が明かされます。

真実の善行を知らされ、清らかな心を作るべき実践が求められます。

そうすると、そこには二つの結果が導かれます。

第一の果は、その行道によって迷いが破れ悟りの智慧が開かれる場であり、第二の果は、逆にどれほど真剣に仏道を行じても悟りが得られず、どこまでも迷い続ける場です。

第一は仏・菩薩の心であって、この心の特徴は、真実の智慧の目を持つということです。

そしてその智慧の目によって、真の意味で不実に迷う衆生の存在を知り、その衆生を救う慈悲の実践がその時から始まることになります。

 第二は愚かな凡夫の心です。

ただしこの凡愚もまた、仏の教えを学ぶことによって、初めて自分は現に迷う存在であり、永遠に迷い続けねばならない自分の姿を知ることになります。

けれども、同時に迷える自己を知るが故に、この私を救う仏・菩薩の大慈悲をも知ることになるのです。

では、仏の智慧と凡愚の迷いは、どのように関係するのでしょうか。

仏の智慧が完全であり、無限に輝けば輝くほど、完全なる闇、無限の暗闇に迷い続ける衆生を照らし続け、また全く真実がなく、完全なる悪のために無限の暗闇を迷い続けることを知る衆生であればあるほど、この自分を照らし救う完全なる仏の無限の慈悲を信知することになります。

このことを『正信念仏偈』には次のように讃えられています。

 「信心を喜ぶ衆生はその時、仏の摂取の心光に照護されている。

ただしその光が、すでによく無明の闇を破しているとしても、凡愚の心は、迷いの貪愛瞋憎(とんないしんぞう)の雲霧によって、なお常に仏の大悲の光を覆ってしまっている。

したがって凡愚の心は光そのものにならず、仏の輝き照らす光も直接見ることはできない。

けれども、たとえば、日光はどんなに厚い雲霧に覆われていても、天上ではその雲霧を問題にせず光輝いている。

そのように、どのように醜い貪愛瞋憎の雲霧が私の心を覆っていても、その雲霧の下には、仏の真実の信心が燦然(さんぜん)と輝いている。

それ故に私の心は、いまだ闇のような暗さでありながら、照らす光を持つが故に、もはや明らかであって闇ではない」

「人間とはね」(中旬)年寄りは知惠者

総合人間研究所所長 早川一光さん

 お坊さんは数珠を手に持って、いつも袈裟を着ておられます。

ぼくは数珠を持って病院に行く訳にはいきませんやろ。

持っていくものは聴診器しかありませんもん。

いつもポケットやかばんに入れて持ち歩いているんでっせ。

なぜかと言うたら、いつどこでどんな病人に会うかわからへんやんか。

道歩いてて倒れている人がおったら、診にいかなきゃなれません。

だからそのときに、聴診器をあてて脈をとる。

倒れている人がいても、「あっしとはかかわりのねえことでござんす」なんて知らん顏できません。

 新幹線に乗っていてもそういうことあります。

「この電車にお医者さんはお乗りになってませんか。

急病人が出ました。

お乗り合わせでしたら一度診てもらえませんか」と言われることもあるんです。

そんな時ぼくね、ものすごく若い自分に迷ったのよ。

なんで迷うかいうたら、私服だったら誰もぼくが医者やと思わへんから、知らん顔していてもすむやんか。

 かかわったら危ない。

一番初めにかかわって、ちょっと診て「あ、大丈夫です」なんて言ってみたら実は死んでて、「あの医者はなんだ」って責任をとらされたらかなわんよ。

知らん顏してたらええんでしょ。

一緒になって、医者探したらええやんか。

診に行くから責任をとらされるんです。

だから行かんとこと思ったけど、やっぱり困ってる人がおったら思わず診に行きます。

いくならちゃんと聴診器とか血圧計持って、いつでも診れるように身を固めていく必要があるんやないか。

 六十年の間、ぼくは真剣に患者さんを診てきて、レントゲン撮らなきゃ、血圧を測らなきゃ、あるいは心電図とらんとわからんという医者でなくなりましたな。

不思議なことに、皆さんの手を握って脈をとったら、その方の血圧はほぼわかります。

ぼくの指が血圧計、ぼくの手が体温計、ぼくの指先が心電図、脈をとってるだけでわかる。

それほどたくさんの人に触れてきましたからね。

 一生懸命診察する、触れる、診る、聞くということが、医療の一番の基本だということがわかりましたわな。

なんぼレントゲン撮って、なんぼ心電図とって、なんぼCTで断層図をとったところで、それはあくまでも映像であって、本物ではない。

本物は自分の手でさわらんとわからんのです。

 長年お年寄りを診察していてわかったことは、真剣に耳を澄ませて聞いてくれていたのか、いい加減にあしらったかということだけは、ちゃんと見抜いとったということですわ。

お年寄りとは知恵者ですな。

経験豊かです。

この頃のお年寄りは、ほんの隅に置けませんもん。

 でも最近心得ました。

お年寄りの言うことを耳を澄ませて聞いて、検査に検査を重ねたら、悪いところがいっぱい出てくるのよ。

目も悪い、鼻も悪い、口ももちろん悪いし、心臓も肝臓も胃袋もよく使ってきた場所だからね。

そりゃ悪いところを探したら、いっぱい出てくるやんか。

 ぼくも若いときは、「どこぞ悪いところはないか」と言って、悪いところを早く見つけて治すのが医者の仕事やと思い込んでたもん。

だから診察するときには、悪いところを探すので精一杯やったのよ。

 この頃は違うんや。

お年寄りを診察するときは、聴診器あてて「どこぞええところ残ってないか」と言う。

そりゃ七十年も八十年も車検も受けずに、油もささんと酷使してきたわけですもん。

そんなもん傷んどるに決まっとるやん。

最近、仕事でよく飛行機を利用する。

最近、仕事でよく飛行機を利用する。

最初の内はわくわくするものだったが、1日に乗り継ぎで2〜3回とか、一週間に5〜6回、おそらく今年は搭乗回数が100回を超えそうなので、これだけ乗るとさすがにうんざりしてくる。

 大型機、特にジャンボジェット機だと、シートもいいし落ち着いた飛行なのでまだ良いが、プロペラ機に乗ると音はうるさいし揺れは酷いしシートも狭いので、飛行機を降りても足が地に着いてないような感覚に陥るなどのさんざんな思いをする。飛行機に乗ったことのない人からすると「乗れるだけでも良いのに、贅沢な悩みだ」と怒られるかもしれないが…。

 ところで、これだけ飛行機に乗ると、飛行機会社によってサービスも色いろ、特に国際線に乗るとそれぞれの会社や国の特徴がありおもしろい。ときに、こんな話を聞いたことがある。私達が国内線に乗る時に、その飛行機会社の社員が私達に言葉を交わすのは、僅か15秒足らずだそうだ。チケット予約のオペレーターに始まり、地上係員のほとんどすべてが委託会社の社員だ。飛行機に乗り込む時「こんにちは、ようこそ」、機内でのドリンクサービスの時「お飲み物は何にいたしましょう」、飛行機を降りる時の「ありがとうございました」、客室乗務員はわずか15秒足らずのサービスと言葉でしかお客様と接しない。だから『最高のおもてなしと笑顔で迎える』というのだ。

 確かにあの笑顔には癒されるし、又乗りたいと思う。しかし、わずか15秒でその飛行機会社の印象がほぼ決まってしまうと思うと…、何とも怖い話だ。

やり直しのきかぬ人生ではあるが 見直すことはできる

 いよいよ今月は「師走」。

今年も残り少なくなって参りました。

一年を振り返るには、まだ少し早い気もしますが、あなたにとって今年はどのような一年だったでしょうか? 年の暮れになりますと、私達は今年一年を振り返ると共に、新たな年に向かっての希望と目標を掲げたりします。

 このように、私達は将来への希望や目標、あるいは心配や不安といったものについて考えることはありますが、「今の私とは?」というような「自己を問う」「自己を省みる」といった「自分の生き方を見つめ直す」ということは案外、見落としがちなのではないでしょうか。

 ところで、最近便利になってきたものの一つにカーナビがあります。

カーナビは目的地までの正確な道筋を教えてくれます。

それと同時に現在地も示してくれます。

目的地に向かう前には、今の私のいる地点と、目的地の双方を確かめることの大切さを教えてくれているように思われます。

 限りある私の人生は、やり直すことはできません。

けれども、仏さまの教えに耳を傾け、その言葉を依りどころとして生きて行こうとする時、迷いのただ中に佇んでいる私の姿(現在地)に気付かされると共に、私のいのちの向かうべき世界とその道のりが明らかになります。

仏教講座12月(前期)

 仏教で「凡夫」と言い表される私たち普通の人間は、もともと「無明(最も根本的な煩悩。

真実を見失った無知)」という酒に酔っており、欲望に狂わされて、くだらないことに腹を立て、愚かな心で毒のみを好んでいる、といわれます。

ところが、このようなことをいわれてもそのような自覚はありませんので、多くの人はすぐに反発されることと思われます。

そして「何を言っているのか! 私は毎日、一生懸命に善意で仕事に励んでいる。

自分が最も嫌っているのは悪であって、家族のため、社会のため、他人のために尽くすことにこそ喜びを感じている。

まさに日々、善を好んでいる。

悪(毒)のみを好んでいることなどありえない」と反論されるのではないでしょうか。

 確かにその通りであって、一般に人間は悪人と善人とを前にすれば、これは例外なく善人の方に好意を抱くものです。

私たちにとって生き甲斐も同じであって、自分の生き方が他人のために役立っているからこそ、その自分の行為が、自分自身の生きる喜びとなっているのです。

ところが現実の生活ではどうでしょうか。

その人のために一心に尽くしたはずの善意が、結果的にその人を傷つけることがあります。

また善意と善意とがぶつかって、争いが起こることも多々あります。

社会に生きる一人ひとりの心を見ますと、誰もが善いことをしようと願っているはずなのに、実際にはその社会には悪が満ち溢れています。

なぜでしょうか。

 ここで、無明という酒に酔って欲望に狂わされている自分の姿が浮かびます。

私たちは欲望という毒を持って生きています。

それは常に自分を中心として、自分の欲しいものを自分の中に取り入れようとする毒です。

したがって、他人のために尽くしているはずの善意そのものが、結局は自分にとって都合のよい善をなしているだけに過ぎないということになります。

つまるところ、人は自分にとって都合のよい善しか行いえない。

そうだとすると、善意と善意がぶつかってそこに争いが生じるのは当然のことだといわなくてはなりません。

 仏教はその無明に酔っている私たちに、欲望とは何かを教え、その酔いから目覚めさせて、真実の善に生きさせようとします。

そこで、人は仏教が説く真実の善とは何かを学ぶことによって、初めて煩悩に狂わされている自分を知り、なんとかしてその酔いから覚めようと努力するのです。

こうして、自分が今まで好んでいた善は、実は毒であったことを知り、その毒の混じっている善を捨て、これこそが真実の善だと教えられた、その「善」を好むようになるのです。

ところが、その真実の善を知らされることによって、こんどは逆にその善に照らされて、何一つその善を成し得ず、どこまでも「悪のみ」である自分を見ることになります。