「生きててよかった」(中旬) 社会のかじ取り

ノンフィクションライター ジェフリー・S・アイリッシュさん

私は子どもたちがこの雰囲気にうまく溶け込めるだろうかと心配したんですが、それはまったくの杞憂で、私がいなくてもおばさんたちと若い女性たちで話し出してすぐに溶け込んでいました。

 後日、学生たちに宿題として感想文をお願いしました。

それを休憩時間とかに読んでいたら、泣きたくなるぐらい感動しました。

例えば「私はおばちゃんみたいに生きたいと思った」とかですね。

これは自分のおばあさんの良さを思い出したんでしょうね。

もう一人が「早速次の日、出水の祖父の家に行きました」とか、また別の子は「最近忙しくて全然会えない私のおじいちゃんやおばあちゃんのことを考えて、もっと話す機会を作って、一緒に何かしたりしようと思った」、そういう効果があってとても嬉しかったです。

 これは彼らのような高校を卒業したばかりの子たちにとって、自分のおじいさんやおばあさんと接するということが、自分らしさとかこれからの自分のこと、それから特に自分の家族とか故郷を誇れる、あるいはその素晴らしさに気づくための大事な一歩になると思うんです。

 私がこの講演で話したかったことの一つは、社会に出るということです。

日本には「社会人」という言葉があります。

この「社会人」という言葉が日本で使われる場合、「学校を出て、社会に出るだけで社会人になる」ということになっています。

私はそれとは違った考えというか定義を持っていまして、社会に出るだけで社会人になるんではなくて、社会に本当に参加できる自分になって、初めて社会人になるということが言えると思ってるんです。

 社会に参加するっていうのは、例えば私が子どもの時に見ていた母親の姿は、本当に社会に参加して、時には変えようとしていましたし、時には支えようとしていました。

そういうことなんですよ。

ですから私もほんの三、四年前から、やっと社会人になれたという気がするんです。

私が住む地域の土喰のことにしても、川辺のことにしても、鹿児島のことにしても、やっと自分が一人の人間として、社会のかじ取りに少し参加しているっていう気持ちなんです。

 その気持ちから、いま川辺でやろうとしている一つの運動というのが、最近流行っている言い方なんだけれど「地産地消」ということです。

身近なところで作られた物を、身近なところで消化するということですね。

 私が食べているもののことで、私自身がびっくりしていることがあります。

例えば加世田の生協に行って買い物をすると、当然鹿児島県内の物が売ってると思ったら、そうじゃないんですよね。

一部の肉類は案外近くから来てるけれど、不思議なことに野菜なんかは逆にもっと遠くから来たりしています。

 皆さんも知っているかもしれないけど、今度川辺の方に大手のスーパーができます。

そういう大きなところができると、個人の店が危なくなります。

ということで、川辺の町報に個人のお店、例えば十二月だったら鶏肉屋の紹介、次はパン屋さんの紹介とかを載せたりして、なるべく身近なところでみんなが買い物しやすいようにと、そういう取り組みをしています。