投稿者「鹿児島教区懇談会管理」のアーカイブ

「現代日本の医療文化と仏教文化」(上旬)健康で長生きが、不幸の完成

======ご講師紹介======

田畑正久さん(佐藤第二病院院長)
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ギリシャの哲学者アリストテレスが

「人間は誰から教えてもらっていないのに、みんな幸せになりたいと思うものである」

と言っているように、人はみな幸せになりたいと思っています。

じゃあどうしたら幸せになれるかというと、現代では若さと健康と長生きですよね。

一方、老いや病、死については不幸ととらえられ、それらをできるだけ避けることで幸せになれると考えています。

その結果どうでしょう。

私が医療現場で出会った人がみんな幸せだったかというと、そうではありません。

104歳まで生きられたある患者さんは、99歳のとき

「長生きしすぎてもう役に立たないから、安楽死させてくれ」

と言われました。

健康で長生きを実現した人が、本当に喜んでいないんです。

長寿大国の日本では、幸せを目指す先端医療で老病死を遠ざけますが、結局は老い、病にかかって死んでいきます。

つまり、不幸の完成で人生が終わってしまうわけです。

それは科学だけを頼り、仏教なんて必要ないと豪語する傲慢(ごうまん)さの結果です。

私が受け持った88歳のご婦人は、不眠症で1カ月に1回、睡眠導入薬の処方を受けていました。

ある時、お家で倒れているのを発見され、脳外科に運ばれました。

しかしCTを撮っても異常がない。

原因は睡眠導入薬を大量に飲んだことでした。

聞くと

「わしは生きていても迷惑をかけるだけ。あのまま眠りたかった」

と言うんですね。

これが科学的合理主義の行き着く先です。

仏教の行き着く先は何かというと

「人間に生まれて良かった。生きていて良かった」

と言って、人生を生き抜いていくものです。

仏教なんていらんというのは、不幸の完成につながってしまうんですね。

他にも私は、87歳になる元数学の先生を受け持っていました。

この方は、ガンになりやすいC型肝炎を持っておられまして、週3回注射を打つことでそれを防いできました。

奥さんをガンで亡くされているので、ガンへの危機感が人一倍強かったんです。

その方が80歳を過ぎた頃、私は

「仏教を学びませんか?南無阿弥陀仏が分かれば、人生もきっと豊かになりますよ」

と誘ってみました。

すると

「そんな訳の分からん南無阿弥陀仏だけは言いたくない」

と言われたことがあります。

きっと80年間、訳のあることだけを積み重ねてきたのでしょう。

ところが、この患者さんもある時ガンになってしまわれます。

すると、健康で長生きが幸せという構造が一気に崩れ、一段と深い迷いに入ってしまいました。

その時、自分が置かれた現実を

「運命だ。仕方がない」

と言われたんです。

運命なんて、南無阿弥陀仏よりもよっぽど訳が分からないですよ。

今まで自らの理性と知性をよりどころにして生きてきて、仏教を否定するプライドがあるのなら、最後になって

「運命」

なんて訳の分からない言葉を使ってほしくないと思いました。

それは、自分の理性・知性による分別で生きることに責任を持てないということを表しているからです。

これを仏教では

「愚か」

といいます。

世間の知恵があっても、仏教の智慧がなければ、結局不幸の完成で終わってしまいます。

人間の持つ四苦、生老病死を仏教は2500年前から説いていますが、医療も仏教と同じ生老病死を取り扱っているんですね。

お盆の出来事…

お盆の出来事…

この時期お寺には、たくさんの方がお参りに来られます。

本堂にも入りきらないほどの参拝者の方々…

おばあちゃんに手を引かれて嬉しそうにお参りに来る子供たちや、久しぶりの帰省なのでしょうか、親戚同士の再会を喜んでいる人達・・・

さまざまな方々がお参りに来られました。

特に納骨堂も普段の10倍はお参りに来られます。

ただでさえ、暑い日が続いているので納骨堂は蒸し風呂!!!!????状態!!

「暑い!暑い!」

と言いながら、みなさん汗びっしょりになってお参りしておられました。

少しでも涼しくなれば…と、去年から納骨堂に、大きな氷を置いています。

氷のそばには扇風機を置いて、涼しい風が通るようにしています。

なかなか好評ですが、やはり暑い夏には敵わないみたいです。

お盆というのは、ご先祖様に感謝をし、

「お陰様で…」

という気持ちに改めて気づかされる大切な期間です。

暑い中でも本堂や納骨堂にお参りされる方々を見て、自分自身も色々な思いがめぐりました。

先人の方々の思いを引き継ぎ、今ある命を大切に、一日一日精一杯生かさせていただこうと強く思いました。

『仏道人生の事実から目をそらさない生き方』

「超常現象の科学なぜ人は幽霊が見えるのか」

(リチャード・ワイズマン著文藝春秋社)を読んでみました。

この本の内容は

「最先端科学実験が明かすヒトの認知システムの盲点」

です。

ヒトの脳は

「自分が見たいもの」

しか認識できず、

「意味のないもの」

にも意味を見だしてしまう。

その錯覚を利用すれば、だれでも

「百発百中の占い師」

になれる。

「百発百中の占い師」

の正答率を計算すると、一般人のそれと変わらなかった。

鏡に映ったゴム製の義手を

「自分の手」

と錯覚してしまうヒトの認知システム。

「魂が肉体から分離した」

と感じるのは、脳の一時的な混乱に過ぎない。

脳は常に、

「選択」

をしている。

目に見えているものでも、認識できることはごくわずか。

その虚を突くトリックで、あなたも

「念力」

を演じられる。

以上、ざっと内容を紹介しました。

例えば幽霊。

恐いのは恐いけど、それって、死んだあの人はずっと存在し続けているという願望が幽霊の存在を肯定し、そのために風が吹けば、音が鳴れば、それを幽霊の仕業と考えてしまう。

または、自分の知識で考えて分からないことは、得体の知れない幽霊のせいだと考えたほうがわかりやすいから、事故の理由を幽霊の仕業と錯覚する。

エトセトラエトセトラ

脳は有難い機能をたくさん持っていますが、全てがきちんと整理整頓されているわけではなく、少しだけ錯覚をしてしまうことがあるようです。

人は病気や災難で死ぬ、と錯覚している人もいます。

病気に罹らなければいつまでも生きるつもりで生活をしている人がいます。

人が死ぬのは生まれたからです。

しかも、様々な縁が重なり合い、いつ死ぬのか、どうやって死ぬのかは自分で選ぶことは出来ませんから、死に際の善し悪しで人生の善し悪しは決まりません。

これはお釈迦様の教えです。

錯覚した事実のようなものを頼りに生きる人生を選ぶのも、事実から目をそらさずに生きるのも、選ぶのは自分自身です。

事実を知ることはとても辛いことかもしれません。

しかし、そこから出発しないものが本当であるはずがありません。

お釈迦様の悟りへの出発点は現実の苦しみ、悩みです。

悟りへの出発点が人生の事実から目をそらさない生き方だったのです。

現代人も悩まされている自己都合の錯覚を見抜いて真実の道を示されたものが、遙か昔のインドで説かれたことに、驚きと感謝をしなくてはならないと思います。

「教行信証」の行と信(9月後期)

7.往相の証・還相の証

浄土教者にとっての真の念仏道は、証果を得て、はじめて始まるといわなければなりません。

証果、それは獲信することなのですが、まさにここから念仏道が始まるのです。

では、その獲信者にとっての真の念仏道とは何なのでしょうか。

ここで、獲信者とは、何かが問われるのですが、獲信することは、往生が決定することです。

そして往生が決定するということは、正定聚の機になるということです。

そうしますと、正定聚の機は、もはや自らの往生を願う必要はなくなります。

未だ往生が確かでないものは、一心に往生を願わなければなりませんが、すでに往生が定まった者は、自身の往生を願う必要はありません。

このように見ますと、獲信者の念仏道は、自分の往生を全く問題にしていないことが窺い知られます。

例えば、学校を卒業しますと、誰も卒業したいということは思いません。

既に卒業してしまったのですから、どうすれば卒業できるかと思う必要はないのです。

そうしますと、獲信者の念仏道はただ一つになります。

それは、自分のために念仏を称えるのではなく、未だ信を得ていない衆生のために念仏の真実性を説法することです。

獲信することによって、初めて念仏者の真の行道が始まるのですが、その真宗者の行道とは、未だ信を得ていない衆生のために念仏の真実性を伝えることがそのすべてになるのです。

しかもその念仏道は獲信した者によってのみ、はじめて可能な道です。

獲信した者のみが、未信者に対して、自分が聞信して明らかになった念仏の功徳を説法することができるからです。

この念仏道の実践が、真実証の内実ではないかと思われます。

ところで

「証巻」

を繙くと、そのほとんどは還相廻向の説明であって、往相廻向については、ほんの少ししか書かれていません。

それはなぜかというと、獲信の念仏者の実践は既に

「行巻」

で書かれているからです。

つまり、往相廻向の実践行は

「行巻」

で詳しく説かれているので、親鸞聖人にとってはあえて

「証巻」

では説明する必要がなかったという訳です。

ここで、獲信者と未信者の関係を、法然聖人と親鸞聖人から、親鸞聖人と唯円との関係に置き換えて考えてみたいと思います。

そうしますと、今度は親鸞聖人が獲信者の側に、唯円が未信者の側に置かれます。

そこで『歎異抄』の第二条の

「十余箇国のさかひをこえて」

という場面が想起されるのですが、ここで唯円が関東から京都に親鸞聖人のもとを命がけで訪ねたのは、まさに親鸞聖人が法然聖人のもとに行かれたのと、全く同じ構造になります。

この場合の唯円には、行は全くありません。

その唯円に対して、親鸞聖人が一方的に説法をされるのです。

では、この念仏行は親鸞聖人にとって、いかなる行になるのでしょうか。

この行こそまさに、報恩行だといえるのではないかと思われます。

このようにみると、報恩行を成しうるのは、結局獲信者のみということになります。

しかも獲信の念仏者は、この報恩行の中で大行の念仏を語っているのです。

この場合、獲信者においては、報恩の念仏と大行の念仏は重なるのですが、未信者においては、その大行の念仏は他から来ることになります。

獲信者は、大行を語り、未信者は大行を聞くのみだからです。

このように、信を得た者が慶んでする念仏が報恩行であり、報恩の念仏がそのまま未信者に対する阿弥陀仏の説法となるのです。

「うたのちから」−幸せになるために人は生れてきた−(下旬)歌、それは人間のいのち

東日本大震災が起こった平成23年3月11日、私は『うたのちから』という歌を作りました。

地震が起きた14時46分。

私は新宿の事務所から埼玉の実家に帰る途中、高架線を走る電車の中にいました。

そこで尋常ではない突然の揺れに襲われ、電車が止まりました。

車掌の指示でみんな電車から降り、そこから駅まで線路沿いに歩いて行きました。

やっと駅にたどり着いても、交通機関は半ばマヒしていたので、駅前のファストフード店に入りました。

そこで空いていた席に座って5時間、私は自問自答を繰り返しました。

歌って何だろう。

自分は何で生きてきたんだろう。

歌に何ができるんだろう。

いや、誰かが待っていてくれる。

だから自分はここまで歌ってきたんだ。

そんなことを考えていると、いろんな人を思い出しました。

同時に、誰かが自分のことも思ってくれているはずだ。

それだけで生きられる。

心が温かくなる。

やっと答えらしいものが見つかり始め、それを箇条書きにしました。

自分も誰かの役に立ちたいと思いました。

それだけできっと未来は輝き出すのだと信じたかったのです。

そんな歌になりたいと思いました。

災害時の避難生活では、年寄りは足手まといになります。

親類縁者・友人を頼りに転々とする避難生活を送る中で、体力的な理由などで離ればなれになったある家族がありました。

その後、やっと家族が再会し、久しぶりの楽しい食事をして家族一緒の喜びを分かち合いました。

しかし、その矢先

「さよなら。私はお墓に避難します」

そんな遺書を残して、93歳のおばあちゃんが夜中に自らいのちを絶ちました。

こんな悲しいことがあってはなりません。

そんなことを考えていくうちに、マハトマ・ガンジーの言葉を思い出しました。

ガンジーの教え通り世の中が動いていたら、戦争も差別もない世の中になったはずです。

ガンジーの言葉に

「7つの社会的大罪」

というのがあります。

その中の4つを紹介します。

1つ目が「人間性なき科学」

それが人間のいのちを危険なさらしています。

2つ目が「道徳なき職業」

道徳をかなぐり捨てた商売が人間の暮らしを破壊し続けています。

3つ目が「理念なき政治」

どんな公約を掲げてもさっと変えてしまう。

そんな理念のない政治が子どもたちの未来を脅かしています。

4つ目が「労働なき富」

働きもしない人たちが投機マネーで世界の経済を混乱に陥らせています。

そして貧富の差は広がるばかりです。

この世の中の苦しみの根源は、貧困と無知です。

今こそガンジーの言葉を思い起こし、失望を希望に、絶望を展望に変えたいと思います。

いわき市の小学校で開いたコンサートの最後に、6年生の女の子が言った言葉を思い出します。

目をきらきらと輝かせて私の顔をしっかりと見ながら言った

「司平さん、ご安心下さい。私は、家は壊れても、心は壊れていませんから」

というその子の言葉を、私は生涯忘れません。

歌、それは人間のいのち。

歌、それは響き合う心。

歌、それは歴史の足音。

歌、それは生きていく力。

FacebookなどSNSでは実名を公開しているユーザーが多くみられ、Googl

FacebookなどSNSでは実名を公開しているユーザーが多くみられ、Googleなどの検索結果として表示されることもあります。

自分の名前を検索すれば、自分に関する正確な情報が見つかることがあるかもしれません。

主に自分の名前をキーワードとしてWeb検索することを“エゴサーチ”と呼ぶことがあるそのだそうですが、一体どれくらいの人が、自分または知り合いの名前を検索しているのでしょうか。

そこで、インターネットコムとgooリサーチでは、エゴサーチを主とした

「Web検索」

に関する調査を行ったそうです。

調査対象は、全国10代〜60代以上のインターネットユーザー1,092人。

男女比は男性52.4%、女性47.6%。

年代比は10代16.1%、20代17.9%、30代21.2%、40代15.8%、50代16.7%、60代以上12.4%。

まず

「自分の名前をWeb検索したことがあるか」

を聞いてみたところ、全体の63.6%となる695人が

「ある」

と回答。

2008年の調査では、1,060人の45.6%がエゴサーチを経験しているという結果が出ていますが、今回はそれを大幅に上回りました。

続いて、エゴサーチをしたことがあるという695人に対し、正確に自分の情報が表示されたかを聞いてみました。

その結果

「表示された」

という人は39.4%(274人)で、

「表示されなかった」

が48.3%(336人)でした。

ちなみに2008年の調査では、エゴサーチ経験者の57.3%が自分の情報を見つけたと回答しています。

自分自身ではなく

「友人など身近な人の情報をWeb検索したことがあるか」

については、6割以上の回答者が、誰かしら身近な人を検索しています。

最も多かったのは

「友人や知人」

で496人。

次いで

「家族」

が355人。

「恋人・好きな人」

が210人となりました。

また、検索した動機としては

「どのような検索結果が出るか気になったから」

を7割以上が挙げています。

最後に

「自分の名前が誰かに検索されていたらどう感じるか」

という質問をしてみたところ、

「特に気にならない」

が46.5%(508人)、

「気分が悪い」

が40.9%(447人)、

「うれしい」

は9.1%(99人)でした。

その他には、

「知り合いに検索される分には構わないが、それ以外は怖い」

「なぜ検索されたのかが気になる」

「なんともいえない複雑な気持ち」

などという回答が見られました。

あなたは、自分をWebで検索、いわゆる“エゴサーチ”をしたことがありますか。

また、自分が誰かに検索されたとしたらどうですか。

それが知り合いだけではなく、見ず知らずの誰かからも検索されているとしたら…、どのように思われますか。

また、いろんな人のことを簡単に知りうる一方、自分のことも不特定多数の人に容易に知られてしまう。

そんな時代が、急速なスピードで訪れつつあることを…、ご存知ですか?