真宗講座浄土真宗の行(9月後期)出体釈について

 謹んで往相の廻向を案ずるに、大行有り、大信有り。

 大行とは、則ち無碍光如来の名を称するなり。

 斯の行は即ち是れ諸の善法を摂し、諸の徳本を具せり。

 極速円満す。

 真如一実の功徳宝海なり。

 故に大行と名づく。

 然るに斯の行は、大悲の願より出でたり。

 即ち是れ諸仏称揚の願と名づく。

 復諸仏称名の願と名づく。

 復諸仏咨嗟の願と名づく。

 亦往相廻向の願と名づくべし。

 亦選択称名の願と名づくべきなり。

 この引文は「行巻」冒頭の文ですが、この文中「大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり」が、一般に「出体釈」と呼ばれ、「斯の行」から「故に大行と名づく」の文が「弁徳釈」と名づけられています。

 そして「無碍光如来の名を称す」という行為が、法体の名号であるのか、諸仏の称名を指すのか、それとも衆生の称名の意なのかが宗学で問われ、論争を引き起こしてきました。

 けれども、従来の宗学で論争されてきた事柄は、果たしてこの「大行釈」においてそれほど重要なことなのでしょうか。

 親鸞聖人がこの「出体釈」で問題しておられる根本問題は、宗学が論争してきたような点にあるのではなく、阿弥陀仏の「往相廻向の大行」の義を論証しておられるように窺われるからです。

 さて、「行巻」は「謹んで往相の廻向を案ずるに、大行有り、大信有り」という文で始まります。

 「往相の廻向」とは、衆生を浄土に往生せしめるための阿弥陀仏の廻向の働きを指しています。

 その「廻向」の働きに、大行と大信という二面のあることが、ここでは改めて示されているのです。

 このうち、大信に関しては「信巻」の問題になりますので、「行巻」においては、ただ「大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり」と、往相廻向の大行の面だけが問われるのです。

 そうしますと、この「称名」が往相廻向の大行なのですから、ここでは「どのような心で称名すべきか」という衆生の主体が問題になっているのではなく、どこまでも阿弥陀仏の救いの法として、この「称名」が説かれているのだと見なければなりません。

 しかも大行の「弁徳釈」を結んで「然るに斯の行は、大悲の願より出でたり」と言われています。

 つまり、阿弥陀仏が「第十七願」に誓われた、諸仏の称名という行態を通して、この「大行」がこの世に出現しているのだと、親鸞聖人は解されるのです。

 再言すると「無碍光如来の名を称す」とは、阿弥陀仏の名号「南無阿弥陀仏」を口に称えることですが、この称名は、衆生が無意味に、あるいは無目的に「南無阿弥陀仏」と唱えている、その行為性を問題にしているのではありません。

 また、往生を願って一心に称える称名を指しているのでも、獲信の歓喜踊躍の声としての称名を問うているのでもありません。

 「往相廻向」とは、衆生から阿弥陀仏へという方向ではなく、まさに阿弥陀仏から衆生にはたらく行為なのです。

 無碍光如来が一切の衆生を摂取するために、仏自身が「南無阿弥陀仏」という廻向の行態となって、この世に出現している「相」が、この称名にほかなりません。

 この点は「 大無量寿経」諸引文の内容と全く重なります。

 「大無量寿経」引文には、衆生がどのようにして仏道を行じて往生を得るかという、衆生の主体的な行法は何ひとつ語られていませんし、衆生の信じ方や行じ方も、何ら求められてはいません。

 ただ、諸仏の讃嘆によって、阿弥陀仏が一切の衆生を摂取するために「南無阿弥陀仏」という名号を成就され、宝藏を開いてその功徳の宝を廻施されます。

 その阿弥陀仏の大悲の真理が、この「大無量寿経」引文には明かされているのです。

 このことから大行とは、一切の諸仏によって選択され、讃嘆され、その諸仏国土の衆生に「ただ無碍光如来の名を称せよ」と説法されている「称名」ということになり、「南無阿弥陀仏」こそ、諸仏の讃嘆をとおして、阿弥陀仏が一切の衆生を摂取するために、この世に出現している、弥陀の行態だといえます。

 親鸞聖人は「弁徳釈」で、この称名を「斯の行は、即ち是れ諸の善法を摂し、諸の徳本を具せり。

 極速円満す。

 真如一実の功徳宝海なり。

 故に大行と名づく」と註解され、行としての一切の善根を修め、行によって積重される功徳の一切を具している阿弥陀仏の功徳の相が、この称名だととらえられます。

 そして「大無量寿経」引文に続く「称名破満釈」で、その称名が阿弥陀仏の躍動の相であるからこそ、「南無阿弥陀仏」を称えるそこに無条件で衆生の一切の無明の闇を破し、一切の功徳を満たされる真理があるのだと解されるのです。

 では、この「大行釈」から、どのような大行の特性を導き出すことができるのでしょうか。

 「出体釈」から「称名破満釈」に至る文中から、大行の特性を示す親鸞聖人の言葉を摘出すれば、

 一、行の相状として「大行とは則ち無碍光如来の名を称す」

 二、行の体徳として「斯の行は、即ち是れ諸の善法を摂し」

 三、行の伝達として「斯の行は、大悲の願より出でたり」

 四、行の力用として「名を称するに能く衆生の一切の無明を破し」

 等の文を見いだすことができます。

 そこでこれらの特性を、従来の宗学の大行釈に重ねてみると、石泉の「衆生の称名」は大行の相状に、空華の「法体大行」は大行の体徳に、豊前の「諸仏の称名」は大行の伝達にそれぞれ相当することになります。

 各学派が大行のその特性に焦点を当てて、それぞれに大行についての解釈を施している訳です。

 ただし、大行の本性とは何かという同一の問題を、もし異なった立場から論じ合っているのであれば、その結論を得ることはできませんし、同時にその論諍は無意味なものとなります。

 そこで、親鸞聖人の大行の思想を従来の宗学の大行解釈の特徴を取り入れて理解しようとすると、次のように説明することができます。

 大行と何でしょうか。

 それは「諸仏によって称讃されている阿弥陀仏の名号」です。

 この名号が、「衆生の上で称名となって現れている」のですから、そこには万徳が具せられています。

 それ故、称名は衆生の一切の無明を破する力用を有するのです。

 大行には、このような行相と体徳と伝達と力用という根本義が同時に有せられています。

 したがって、この一部のみを抽出して、大行の本質とは何かということを論じることはできません。

 そこで、「大行とは何か」ということを、もし現象面でのみ論じようとすれば、それは衆生の称名という相でしか掴むことはできませんし、また「本質は何か」を問うとすれば、万徳を具した阿弥陀仏の名号としか言いようがありません。

 このようにみれば、大行は称名と名号という二つの言葉をかりてのみ、はじめてその特性を説明することができます。

 当然のこととして、この意味では名号と称名は相即していますが、この相即は仏と未信者の間で語ることはできません。

 名号と称名の相即は、第十七願と第十八願の願自体においては語り得たとしても、第十七願と第十八願の主体においては語り得ません。

 親鸞聖人における名号と称名の関係は、後世の宗学が意味するような、法体名号と衆生の称名という厳密な使い分けはなされていません。

 名号といっても、私たちの側では、称名としてしかとらえることはできないのですから、親鸞聖人自身は名号をしばしば大行の現れである称名と同じ意味に用いておられます。

 こうして、称名が無条件で大行となるのですが、では衆生の称名を待たなければ大行とはいえないのでしょうか。

 この点に関しては、桐渓氏の「聞えてくる称名」という説を思い浮かべれば、容易に理解することが出来ます。

 いうまでもなく、大行は衆生の称名を待って成立するのではありません。

 まったくその逆であって、衆生に称名せしめるはたらきこそ、大行の特性に他ならないのです。

 では、その大行の物体は何でしょうか。

 それを法体の名号だといい、諸仏の称名だといったところで、私たちの認識の世界では、衆生の称名を除いてそれを具体的に把握することはできません。

 目で見る事も、耳で聞くことも、手でふれることもできないのです。

 その限りにおいて大行の本性は、衆生の認識を越えているのですから、衆生には無関係な存在となっています。

 したがって、私たちにとって必要なことは、具体的に認識することのできる大行の相の出現だということになります。

 その出現をまって、初めてそこに接点を見出し、大行を求め大行を語ることができるのです。

 私と大行の関係は、その出現によって初めて具体的に始まります。

 それを親鸞聖人は「称名」という相において見られます。

 理として、大行は現実界に遍満していると見るべきです。

 けれども、それがどこにあるかは、直接的には掴み得ません。

 ところが、そこで一声「南無阿弥陀仏」が称えられると、その瞬間に私たちは大行と具体的に接することができるのです。

 接することによって初めて、大行とは何の思考が私たちの側から動き出します。

 このように見れば、『行巻』冒頭の大行釈は、衆生の信の有無が問題にされているのではなく、称えている称名そのものが、今まさに現実界に出現した大行であることを親鸞聖人は明かしておられるのだと言えます。

 大行「出体釈」に関して、従来の学説に対する批判は、ただ一点に絞ることができます。

 これまで、「大行」は第十七願と第十八願の関係において捉えられてきたのですが、それをあくまでも第十七願の場の中で論じるべきだとした点です。

 そこで、石泉・空華・豊前の各説を、第十七願の場におろして論じるとどうなるでしょうか。

 石泉の説を借りれば、私たちが具体的に大行を把捉できるのは、ただ衆生の称名においてというこになります。

 そしてその称名の本質が、空華の説に見られる法体名号ということだと思われます。

 では、この大行にはどのような働きがあるのでしょうか。

 「称名は衆生の一切の闇を破し、志願を満てたもう」のです。

 ところで、この現実の世においては、すでに獲信した衆生と、未だ獲信していない衆生がいます。

 法体名号の伝達は獲信者から未信者へつと伝えられます。

 この獲信者の称名が、豊前が意味する諸仏の称名の意味になります。

 この称名は、自身においては報恩の念仏になりますが、未信の衆生に対しては、正定業の念仏になります。

 諸仏および獲信の念仏者のみが、よく阿弥陀仏の名号を讃嘆し、称名の真実を説法することが出来るからです。

 ここに「大行」が、諸仏の称名として象徴的に捉えられていることの意義があります。

 では、「口に南無阿弥陀仏を称えなければ大行とは言えないか」という疑問が最後に残りますが、これは「称名破満釈」の後半の問題になります。