どんな日もかけがえのない一日(中期)

私たちはいろいろな思いを抱えて生きていますが、その中でも自分の死んだ後のことが常に気にかかります。

そのことは、死んだ後に初めて問題になるのではなく、生きている中で「今」、もしここで死んだらどうなるのだろうということが、心にかかっているのです。

ところが、私たちはいつも「今」を生きているのですが、その「今」があまりかけがえのない「今」とはなかなか思えないのも事実です。

それは、私たちの心の中には、いつも「明日がある」とか、「そのうちに…」という思いがあるからではないでしょうか。

本願寺第八世蓮如上人は、御門徒の方々に対して常に「後生の一大事」ということをおっしゃっておられました。

浄土真宗においては、とても大切な言葉なのですが、その一方、現代を生きる私たちにとっては、この「後生の一大事」という言葉は、非常に理解し辛い感じがします。

辞書で調べますと、「後生」とは、「後世・後の世」、つまり来世とか死後の世界・次の世という言葉と同じ意味だと説明されています。

そうしますと「後生の一大事」というのは「死んだ後の一大事」ということになりますが、はたして蓮如上人は「この世のことはどうにもならない。

だから、せめて死んだ次の世では幸せになって欲しい」というような意味で、この言葉を語りかけておられたのでしょうか。

そこで、蓮如上人の著されたものを読んでみますと、どうもそうではないことが窺い知られます。

蓮如上人における「後生」とは、私が死んだ後の問題ではなく、今、生きているこの人生における「一大事」として語っておられるようです。

また、蓮如上人が「一大事」と言われているのは「そのこと一つが明らかになれば、人間としての確かな歩みを続けて行くことができる」ということです。

それは、言い換えると「生きていることの感動や喜びを、その一点において感じることができる」ということが「一大事」の具体的内容だといえます。

ところで、「一大事」ということで言うと、浄土真宗の開祖・親鸞聖人は「出世の一大事」という言い方をされます。

これは、「この世に生まれてきた、生きてあることの感動をどこで見いだすのか」ということです。

私たちは、誰もが生きて行く上での生き甲斐を求めています。

そういう生き甲斐という言葉に重なるのが、「出世の一大事」という言葉からは感じられます。

ところが、蓮如上人はなぜ「後生の一大事」という言い方をされたのでしょうか。

そこに思われるのは、私たちのこの「いのち」には、やがて老いて死んでいくという「老死」の問題が逃れがたい事実として厳然としてあるということです。

「生き甲斐が欲しい」「充実した人生を過ごしたい」という思いで生きている私たちの願いを、全部飲み込んでしまうような形で「老死」という事実が待ち構えているのです。

そのために、必死の思いで懸命にどれほどの生き甲斐を積み上げたとしても、いつか私たちはその全てを残して死を迎えなければなりません。

考えてみますと、人生の全てを捧げ尽くしたことであったとしても、死を前にして砕け散ってしまうような「一大事」なら、結局そこに残るのは「空しかった」という思いだけです。

私たちの「生きる」という営みは、必ず「老いて死んでいく」という事実を含んでいます。

そうしますと「老死の事実をどのように受け止めて行けば良いのか」ということが明らかにならなければ、どれほど「生きる喜び」を口にしていても、最後の最後でそれを投げ出さなければならなくなってしまいます。

それを蓮如上人は「後生の一大事」という言葉で言い表そうとなさったのではないかと思うのです。

人として生まれた以上、やがて「老いて死んで行く」ことはどうにもなりません。

その私に「老死」の事実から目をそむけ、その事実から逃げて、生き甲斐というものを握りしめて満足しようとしている姿に気付かせようとして下さったのが、まさにこの言葉なのだと言えます。

そのような意味で、老死する「いのち」の事実を生きる私に「生きていることの喜びをどこで見いだせるのか」と、問いかけて下さっているのが「後生の一大事」という言葉だと思われます。

では、私たちが「後生の一大事」を尋ねるということは、いったいどのようなことなのでしょうか。

『無量寿経』の中に「老・病・死を見て世の非常を悟る。

国の財位を棄てて、山に入りて道を学したまう」という言葉があります。

仏教の歴史の出発点は「老・病・死」の自覚です。

仏教は、仏陀の悟りから始まったのではなく、人間の苦悩から始まりました。

したがって、「後生の一大事」を尋ねるということは、そういう「老・病・死」という事実を受け止め、しかもなお確かな人生を行き尽くしていける、そういう道を尋ねるということなのです。

そうすると、蓮如上人は、私たちが日々の生活の中でどれほど行き詰まりを体験しようとも、その全てを受け止めながら生きて生ける道がある。

そういう道をどうか尋ねて欲しいという願いを「後生の一大事」という言葉として、私たちに促し続けてくださったのではないでしょうか。

ただ、この言葉はやはりそのままではなかなか理解することが難しいので、蓮如上人のお心を受け止めつつ、それを現代の感覚で言い換えるとすると「あなたは、いつ死ぬか分かりませんよ、今のままで死ねますか」という問いかけの言葉となるように思われます。

そうすると、「後生の一大事」とは、「本当に死に切れるほどに、生きる道を尋ねてほしい」そういう呼びかけとして聞いて行くことが大切なのだと言えます。

そして、そのような問いかけに真摯に向き合うとき、初めて私たちは自分の人生の全体を振り返る眼が与えられ、自分の人生を問い直す、そういう心が呼び覚まされてくる。

おそらく、そのことによって、私たちは日々の生活が「かけがえのない一日」であることを実感できるようになるのだと思います。