「本願寺と新撰組〜チームの力を考える〜」(下旬)本願というチームの目的

チームということでいえば、本願寺もまたひとつのチームです。

何を目的としたチームなのかといえば、これはもう一言でズバリ、「南無阿弥陀仏」をいただいて、一緒に念仏の人生を歩むということです。

それが、本願寺のチームとしての目的です。

本日、私、法衣を着て、僧侶としてみなさんの前に出させてもらっています。

本願寺というのが、一つのチームで「南無阿弥陀仏」をみなさんに伝えるのが一つの目的だと申しましたので、私も本願寺のチームの一員として、みなさんにご本尊・阿弥陀さまのお取り次ぎをさせていただきたいと思います。

かつて蓮如上人が、私たちがなぜ人間に生まれてきたのかということについて、『御文章』に書いておられます。

そこでは、「五戒を保つことができたから、人間に生まれてきたのだ」と説いておられます。

「五戒」とは、五つの戒めのことで、

「不殺生(ふせっしょう)」生き物を殺さないこと。

「不偸盗(ふちゅうとう)」盗みをしないこと。

「不妄語(ふもうご)」嘘をつかないこと。

「不邪淫(ふじゃいん)」みだらな交わりをしないということ。

「不飲酒(ふおんじゅ)」お酒を飲まないということ。

これらは、仏法に関わりのないことに没頭することをさします。

現代では、テレビゲームやスマートフォンとかも入るのかもしれません。

この五つの「不殺生戒」「不偸盗戒」「不妄語戒」「不邪淫戒」「不飲酒戒」という五つの戒律を守った功徳で、私たちは今、こうして人間に生まれてきて、仏さまのお話を聞かせてもらっているのです。

私たちが、人間に生まれてきて仏法を聞けるのはなぜかというと、前世において、さらに前前世においてこの五戒を保ってきたからだと言われています。

人間は、前世、前前世、前前前世、生まれたり死んだりしている。

迷っては死に、迷っては死にしてぐるぐる回っているのです。

この迷いの人生を何とか救ってやりたいといって立ち上がられたのが阿弥陀さまです。

阿弥陀さまは、迷っている私たちに一言でいいから「南無阿弥陀仏と称えてくれよ」と言われます。

みんなのために、全ての修行を成し遂げて悟りを開かれたのです。

だから「南無阿弥陀仏に全部こめたよ、これ一つで間に合わすよ、間違えさせないよ、全部私に任せなさい、南無阿弥陀仏と称えてくれよ」と呼びかけていてくださいます。

「南無阿弥陀仏に全部こめた」と。

今、みなさまとこうして尊い仏縁をいただいておりますけれども、一声でも多く、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えていただきたく思うのです。

新撰組・土方歳三の資料も確かに歴史的な宝です。

いいお土産ですけれども、「南無阿弥陀仏」を持ち帰っていただけたら、本当に嬉しいことですし、真宗僧侶としての役割も果たせたのかなと思います。