「本願寺と新撰組〜チームの力を考える〜」(中旬)時代の流れに抗い、変貌した新撰組という組織

昨年9月12日、本願寺の書庫から、新撰組・土方歳三の書状が出てきたというニュースを、みなさん覚えていらっしゃいますか。

新聞やテレビなどでも報道されたので、御存知の方も多いと思います。

少々誤解があるのですが、実は発見されたのは土方歳三の直筆のものではありません。

当時、本願寺の職員さんが書いていた日誌があり、それに土方歳三の手紙が写されていたというもので、その内容が非常に興味深いものだったのです。

幕末、新撰組が本願寺に屯所を置くことになったのですが、そのとき本願寺側は大慌てしました。

元治2年3月10日と伝えられていますが、この出来事について、本願寺の資料があり、次のように記されています。

「翌年3月にいたり会津藩は新撰組の屯所を本山に設くることを強要す辞せしもきかずやむを得ず本堂の北集会所をもってこれに充てる」と。

つまり、当時幕府の命で京都を治めていた会津藩の方から、新撰組の屯所を本願寺に置くようにと命令が来た訳です。

しかも「辞せしもきかず」と、「嫌だと」と言ったけれど聞いてくれない。

仕方がないので、本堂の北集会所を屯所に充てたという内容です。

こうして新撰組は、元治2年3月10日に本願寺へ移ってくる訳ですが、その前日に本願寺では幹部にお達しがありました。

「明日、新撰組に北集会所を屯所として貸すので、新撰組に対して不作法な態度をとらないでほしい。本願寺の名前に関わるので、決して傲慢な態度はとらないように。直接対応しないように」

など、相当に警戒していたことがうかがえます。

新撰組は、本願寺に対して色々と要求をしたようです。

3月21日に移ってきて、10日後には「お金を貸してほしい」と言ってきた。

500両、現在の金銭に換算すると2億円ほどの借金の申し入れがあり、本願寺から200両、商人から300両借りて応じたと記録があります。

6月25日には土方歳三から急遽相談があったようです。

これは、北集会所だけでは狭いので、こともあろうに本尊のある阿弥陀堂を遣わせてほしいと無理難題を言ってきたようです。

土方歳三が無茶な依頼をしてくるのには理由がありました。

新撰組は、幕府の尊皇攘夷のために京都の治安にあたるという目的で組織され、人数も増え大集団となっていました。

確かに与えた場所だけでは手狭になっていたのです。

さらに英仏蘭米の4か国が下関を攻めたとき、幕府は攘夷を放棄しました。

それによって、新撰組の隊士たちは目的を失ってしまうのです。

何のために新撰組に入ったのか分からなくなった隊員たちから、色々と不満が出てくる訳です。

それを土方歳三は一生懸命押さえようと、鉄の掟を作り、ルールをどんどん厳しくし、締め上げていきました。

それが、ちょうど本願寺の屯所があった時期と重なっているのです。

資料によると、14名が切腹、あるいは粛清されて亡くなっています。

新撰組自体が揺れて目的や理念を見失って、チームが崩れようとしている時期に、土方歳三から本願寺へ急遽相談があったのですが、このとき土方歳三自身も追い詰められ焦っていたのです。

それに本願寺は迅速に対応したようで、土方歳三から感謝する内容の書状が届くのです。

しかし、本願寺の本音は早く出て行ってほしかったようです。

しばらくして、本願寺側で不動堂村に新しい土地を用意して屯所を作り、さらに500両の金を与えて移ってもらったと記録にあります。

慶応4年6月15日、新撰組は本願寺を出て新しい屯所に移っています。

その後、隊士の伊東甲子太郎が御陵衛士という新しい組織を作ります。

この内紛で新撰組はチームが2つに分かれます。

この御陵衛士は、のちにリーダーの伊東甲子太郎が新撰組に暗殺され解散の憂き目に合うのですが、なぜこのようなことが起きたのかというと、チームが持つ目的に食い違いが出てきて理念が違ってきたからだといえます。

組織の運営には、目的意識がとても大事だとお話しました。

人が集まると、それぞれが持っている理念・目的が異なると当然揉め事が起こります。

当時の新撰組も、激動の時代の中で大変だったのだろうと思います。

チームとして、その都度、理念を建て直していかなければならない。

みんなの志というものをその都度、問い直していかなければならない時期だったのかなと考えます。