さて、そういう意味づけを念仏行にして親鸞聖人の著述を読むとき、はたしてそこに現当二益をもたらすような念仏の功徳が説かれているかどうか確かめると、そのようなことは一言も書かれてはいません。
したがって、もし念仏に世俗的な功徳を意味付けて聖人の著述を「現当二益の功徳を得るための書」として読もうとすると、それらの書物は全く面白くないのではなかろうかと思われます。
このことは、私たちが親鸞聖人に期待していることと、親鸞聖人が私たちに語りかけようとしておられることが、大きくずれていることの何よりの証拠だといえます。
このことから、親鸞聖人の念仏の立場には、私たちが日頃念仏行に期待している世俗的な意味での現当二益といった考えは全くないということが明らかになります。
むしろ念仏行にそういうことを求めることを強く否定しておられるのです。
親鸞聖人が厳しく否定しておられるこの点を、もし私たちが肯定的に、一心に聞こうとしているのであれば、親鸞聖人の教えの根本がまったくわからないのは当然のことだといわなくてはなりません。
それでは、なぜ親鸞聖人はこのような現当二益の求めを根本的に否定されたのでしょうか。
それが次の問題になります。
裕福な生活を送りたい、病気にかからず明るく楽しい団欒をもちたい、いつまでも家族全体が幸福でいたい、このような願いを抱くことは、人間として当然のことですし、誰もがこのような世俗の幸福を願って頑張って生きているのだといえます。
しかし、そのような願いを宗教の場に持ち込むのは間違いだと親鸞聖人は述べられます。
それはなぜでしょうか。
いったい親鸞聖人は人間とか、人間の世界をどのように見ておられたのでしょうか。