「油断」の語は、ユッタリ、ユックリと同じ系列の古語「ユタ(寛)ニ」の音便で、
「ゆったりとした気分を持つこと」
の意味で使われることもありますが、一般的にはなまけ怠ること、注意を怠ることを指します。
油断大敵・油断はけがのもと・油断も隙もならないといったように、不注意な行動を戒めるものとして用いられことが多いようです。
ところでこの「油断」も仏典の説話に由来する言葉です。
『涅槃経』には次のように説かれています。
むかしある王が臣下の一人に油の入った油鉢を持たせて
「もし一滴でも油をこぼしたならば、汝の生命を断つであろう」
と申し渡して、二十五里四方になった人の群れの中を歩かせた。
その後には、刀を抜いた監視の部下をつけさせた。
命令を受けた臣下は細心の注意を払って懸命に油鉢を捧げ持ち、一滴の油をこぼすこともなく無事に歩き通した。
この説話の中の「油をこぼしたならば、汝の生命を断つ」から「油断」の語が出来たと言われます。
なお、この話に対する注釈は、次のように説明しています。
「二十五里」は、迷いの現実世界である二十五有(衆生が輪廻の生存を繰り返す場としての三界を二十五種に分類したもの)、
捧げ持つ「油鉢」は色心(事物ないしは身体と心。ここではその調和の状態を指す)、
「油」は戒、「一滴もこぼさず」は一戒をも犯さず、
「王」は仏、
「臣」は修行の人、「刀を抜いて後につく監視人」は無常にそれぞれ譬えているのだと。
迷いの世界に生を受け、欲望の根源である身体と心のバランスを保ちながら、正道を逸脱することのないよう精進しつつも、いったん踏み外した暁には、人としての尊厳がたちまちにして失われてしまうのだということでしょうか。
日々「油断」なく、生きることに心寄せたいものです。