「親鸞聖人における信の構造」6月(中期)

ここで今一度、親鸞聖人と法然聖人の出遇いの場に目を移してみることにします。

浄土教においては、南無阿弥陀仏を称えることが往生の唯一の行です。

それ故に、念仏が往生の「正定の業」だとされるのであり、念仏を称えない限り往生は成り立ちません。

ただし、その念仏はただ口先だけで唱えても意味はないのであって、ここに浄土教において、心から阿弥陀仏を信じ、清浄真実なる心で往生を願い、一心に念仏することが求められたのです。

そこで親鸞聖人は、比叡山でこの念仏を懸命に行じられたのですが、悲しいことに真実なる行の成就を見ることはなく、結局は苦悩のどん底に陥ってしまわれました。

このような状況の中で、親鸞聖人は法然聖人と出遇われたのです。

この時、法然聖人は親鸞聖人に対して、

「阿弥陀仏の大悲は、その苦悩する衆生こそを摂取(救済)されるのだと説法されました。

では、なぜ阿弥陀仏は本願に「南無阿弥陀仏」を選択されたのでしょうか。

それは

「苦悩する不実なる衆生を救うため」

で、ただそのために

「阿弥陀仏の清浄真実なる功徳の全体が名号となって衆生の心に来っている。

あなた(親鸞聖人)の称えている念仏こそが、まさに阿弥陀仏があなたを救おうとしておられる選択本願の行である」

と、法然聖人は語られたのです。

この法然聖人の説かれた

「念仏が選択本願の行である」

という法が、親鸞聖人の苦悩する心を根底から破り、その時に親鸞聖人の心には一大転換が起こりました。

この心を「廻心」と呼びますが、それは親鸞聖人が今まで称えておられた念仏は、往生するための自力の念仏ではなくて、親鸞聖人自身を往生せしめる弥陀廻向の大行であることが、親鸞聖人に信知せしめられたのです。

ここに、親鸞聖人が

「南無阿弥陀仏」

と真の意味で初めて出遇う瞬間があり、そこに親鸞聖人が阿弥陀仏の大悲を獲得する一念がみられるのです。