「親鸞聖人における信の構造」7月(中期)

(1)『人は信心(悟り・完全な喜びの心)を得るために、どのような努力をするのか』

の立場とは、信じる心(完全な喜びの心)を得たいという立場です。

そして、この信心を得るために、自分は何をなすべきか、何を学べばよいかが問われます。

この時、私たちの心は信心を得たいと願っているのですから、それはいつ、どのような時に得られるか。

また、得られた時、どのような喜びを味わえるかが、最大の関心事になります。

 けれどもこれは、自分が体験しない限り、絶対に分かり得ないということを、はっきり知らなくてはなりません。

したがって、体験した人が、その体験談を一生懸命に語ったとしても、聞いている人には、あまり意味のないことで、どれほど一心に聞いても、聞いている人がそれを同じように味わうことは不可能です。

 例えば、テレビの放送で、おいしそうな料理を食べている出演者を見ることがあります。

けれども、見ている私たちは、全くおいしくありませんし、その味を共有することは出来ません。

それを味わうためには、ただ何となく番組を見ているのではなく、その料理の材料と、作り方を知る必要があります。

これと同じように、信心は他人の体験談を聞いてもあまり意味はないのです。

 何よりも「信心」は、自分が一生懸命に努力して、求めなくてはなりません。

この時、浄土真宗の事が誰でも願うことは、自分は本当に喜びの心で、一声、念仏を称えたい。

心から阿弥陀仏を信じ、晴ればれとした喜びの心が得たいということであるように窺えます。

では、そのことを実現するにはどうすればよいのでしょうか。

それは、自分がその心を得るために、一心に努力する以外、方法はありません。

例えば、

(1)自分が座禅し、念仏を称え、一心に心を静寂にする

(2)自分が一生懸命に祈り念仏をして、阿弥陀仏に救いを求める

(3)他人のために一心に心を尽くし、その喜びを通して、仏の慈悲を知る

等々、ここでは自分自身、出来る限りの努力をし、念仏行に励むことが求められます。

注意すべきは、この場合、自分は何もしないで座っており、ただ他人の体験談を聞いていても、決して信心の喜びは得られないということです。

では、親鸞聖人の場合はどうだったのでしょうか。

親鸞聖人は、まず

(1)『人は信心(悟り・完全な喜びの心)を得るために、どのような努力をするのか』

という問題について、究極まで求められました。

けれども、この行道においては喜びが得られず、そのため絶望のどん底に陥られたのです。

これが、1月〜3月までに述べた内容です。

 親鸞聖人を獲信せしめた念仏とは、どのような教えだったのでしょうか。

これが

(2)『仏とは何か。

仏はいかなる行為をなすか』

の内実で、その念仏が4月〜6月まで述べた内容の中心課題です。