「親鸞聖人における信の構造」7月(前期)

 ここで、これまでに問題にしてきた事柄を要約しますと、

1月〜3月までは

『(1)人は信心(悟り・完全な喜びの心)を得るために、どのような努力をするのか』

4月〜6月までは

『(2)仏とは何か。

仏はいかなる行為をなすか』

ということが中心点でした。

そしてこれからは

『(3)浄土真宗の信心とは何か。

いかにすれば信心を得ることが出来るか。

信じる心について。

信心を得た人はどのような道を歩むか』

といったことが中心課題になります。

 ところで、今日の浄土真宗の教えにおいては、ほとんどの場合(3)の事柄について多くの関心が寄せられています。

にもかかわらず、この点が一般にはあまりよく理解されていないのが現状です。

つまり説く側は「信心」について熱心に語るのですが、それが聞く側の人々からは

「少しも分からない」

という反応が示されているということです。

それは、何故でしょうか。

おそらく、教えを説く側が、(1)と(2)の問題をあまり重視していないからだと思われます。

 具体的には

「念仏者がいかに社会的な問題に積極的にかかわっていくか」

ということが、しばしば実践的な課題として取り上げられていますが、その前提には

「念仏者=獲信者」

という暗黙の了解めいたものがあり、したがってそのことに消極的であったり、ましてや背反するような言動を犯すと覿面厳しい指弾を受けることになります。

「(獲信の」念仏者であるにもかかわらず…」

と。

 そこで、まず自分が今、どの立場から浄土真宗の教えを学び求めようとしているかを、はっきりと知る必要があります。

(1)と(3)が人間の問題であり、(2)が仏の問題です。

そして(1)においては、未信者の心が問われており、(3)では獲信する者の心が問題になっています。

そこで、今の私たちの立場ですが、それは(1)(未信者)であるであるということに特に注意しなければなりません。

したがって、ここでは終始(1)の立場から、(2)と(3)を問題にしています。