「平常心」

「ビョウジョウシン」とも読みます。

平常とは、日常のことです。

のどが乾けばお茶を飲み、お腹が減れば食事をしたいと思う、そういうのびやかで堂々とした自然な心のありさまを平常心といいます。

とはいえ、我欲に翻弄されている私たちの心のありさまのことではありません。

我欲の根を断ち、自己の是非善悪からも離れた崇高な覚りの心境さえ超えた、崇高でありつつ日日常的な心境を打破して、実際の人の救いの現場に出ることを示す言葉です。

 その現場を

「平常心是れ道」

といいます。

これは、八世紀の中国の禅僧馬祖道一に発する語です。