「水子」
とは、本来は
「みずみずしい子」
という意味で、幼児のことを指す言葉でした。
ところが、今日では胎児、さらには堕胎・流産した子をいうようになり、
「うらみを抱いて死んだものは祟る」
という
「怨霊信仰」
と重なって、
「水子供養」
が行われるようになってきました。
確かに、漠然とした不安を
「水子供養」
をすることによって安心感を得たいという気持ちは理解できなくもありません。
しかし、仏教は
「諸法無我」、
すなわち私たちの中に実体的な存在としての
「我」
を認めないという立場をとります。
したがって、現に生きる人々の禍福にかかわる水子をはじめ、実体としての
「霊魂」
の存在も認めていません。
また
「縁起の法」
から考えても、私の身に起きる事実は、私の身口意の三業に起因するものであって、水子とは何ら関係はありません。
水子を供養してもしなくても、祟ることなどないのです。
そもそも祟りとは、死への恐怖から起る迷信であり、供養とは祟りを恐れて霊に供物を供えたり、追善の廻向をすることでもないからです。
ここで考えなければならないことは、今は亡き子のことを思い悩んでいるようでありながら、実は現実の不都合や不幸を亡き子の祟りとして責任転嫁しようとしてはいないかということです。
先ずは、そのように身勝手な自分自身とはっきりと向き合うことが大切なのだといえます。
水子をひとつのいのちとしてとらえていく中で、祟りを恐れる心から供養を営むのではなく、追悼の心からお勤めさせて頂きましょう。
そこでは、亡き子の死を縁として、人生の無常に気付かされ、親も子もともに救われていく世界があるということを聞かせて頂けることと思われます。