『泥沼の どろに染まらぬ 蓮の花』

平成21年6月(中期)

 経典で

「蓮華」

という場合、ふつうは白蓮をさし最上の花とします。

それは、白蓮が泥の中に生えて清らかな花を咲かせることから、迷いに汚れたこの世にあって清浄なはたらきをする仏法、また煩悩にまみれていてもそこから清らかなさとりが生まれることにたとえられるからです。

ところで、犬や猫あるいはその他の動物は、例えば犬として生まれるとその瞬間から犬として生始め、やがてその生涯を終えます。

また、猫として生まれると、同様に猫は決して犬や猿になることはなく、猫としてその生涯を終えていきます。

ところが、私たち人間は

「人」

として生まれてはきますが、かつてインドの山奥で狼に育てられた子どもが発見され、何とか人間とし育てようとしたものの、結局外見は

「人」

であってもその内実は狼のまま生涯を終えたという話が伝えられています。

つまり、私たちは

「人」

として生まれても周囲の環境によって、どのようにでもなってしまう可能性を秘めていると言える訳です。

さて、仏教では仏さまの清らかな覚りの世界である

「浄土」

に対して、私たちの迷いに満ちた世界を

「穢土」

という言葉で言い表しています。

貪り、怒り、愚痴、妬みなど、溢れんばかりの迷いをことごとく備え、それらに惑いながら 生きているにもかかわらず、なかなかそのことに自ら気付き得ないでいるのが私たちの身の事実です。

それは、あたかも夏のスペシャリストとでもいうべきセミに、もし会話が成り立つとして

「いま季節はいつか知ってますか?」

と尋ねたら、きっと

「???」

と沈黙するかもしれないのと同じです。

なぜ、私たちは今が

「夏」

だと言いうるかと言うと、

「春・夏・秋・冬の全ての季節を知っているから」

です。

ところが、夏しか知らないセミは、おそらく夏を夏だと知り得ないままにその生涯を終えていくことと思われます。

このように、迷いのただ中にしかない私たちは、なかなかに自らが煩悩に迷っていると知ることはできません。

親鸞聖人は『正信偈』の中で

「惑染凡夫」

と述べておられますが、時々惑うのではなく

「惑いに染まっている」

といわれるのです。

まさに、泥沼のなかにあって、そのどろに染まり、もがいている状態にあるのが私たちの姿だといえます。

一方、仏さまのみ教えは、蓮が泥の中から美しい花を咲かせるように、迷いに満ちた私の心にみ教えの光を灯し、かならず美しい覚りの花を開かせて下さいます。

「人」

として生まれはては来たものの、周囲の環境によって、どのような色にでも染まってしまう私たちであればこそ、そのことを自覚して、私を照らしあるべき姿を教えて下さる、尊い仏さまの教えに耳を傾ける生き方をしたいものです。