「他力本願」
という言葉ほど間違って使われる仏語は無いのではないでしょうか。
「他人をあてたよりにすること。ひとまかせ。」
等と辞書にまで載る始末です。
メディアを通して聞こえてくる
「他力本願」
の用いられ方は、おおかたこの意味で使われているようです。
では、本来の意味というのはどのような意味なのでしょうか。
「他力本願」
の対極にある言葉は
「自力」
です。
「自力」
というのは、自らの意志や力をあてたよりとして生きていくことです。
しかしながら、どんなに努力を重ね、正しい行いをしているつもりであったとしても、その基準は
「自分」
でしかありません。
自分自身が頼りですから、時に
「私は間違っていない」
と自分を正当化したり、時には他人と比べたりしながらの生き方となり、突き詰めると
「私」
中心の生き方を離れることはできません。
特に人間にとって普遍的な
「老・病・死」
のいのち問題を解決する事はできません。
このように私たちが人生を貫いて生きる支えとならないのが
「自力」
の生き方と言えます。
「他力本願」
という言葉は、
「他力」
という語の印象から
「他の人の力」
と間違われるのですが、親鸞聖人は教行信証という書物の中で
「他力というは 如来の本願力なり」
と書かれています。
「阿弥陀仏の本願の力」
が他力という語の本来の意味になります。
阿弥陀仏の本願というのは、仏説無量寿経に説かれている法蔵菩薩の48の願いのことです。
それは阿弥陀仏が悟りを開く前、まだ法蔵という菩薩の時に、全ての人々を救うことのできる仏になりたいと誓われた願いです。
法蔵菩薩は果てしない時間を掛けてその願に応じた修行をして、お悟りを開かれて阿弥陀仏となりました。
「本願」
というのは阿弥陀仏の
『願』
であって、全ての人々はその
『本願』
のはたらきによって、浄土に往生して仏様に成らせて頂くのだから、
「他力本願」
といわれます。
そして、
「他力」
というのは
「阿弥陀仏の本願の働き」
であり、さらに私たち自身の努力や行いによっては到底悟りを開いて仏に成る事など及ばないことも明らかに成っていきます。
他力本願の他力というのは、全てを阿弥陀仏のはたらきにおまかせしながら、どんなに小さな善行も功徳の行も行い得ない
『自分』
に気づいていく営みだと言えます。
人生において避けて通ることの出来ない老・病・死。
そしてどんなに願って努力しようとも、思うようにならない人生を力強く生き抜くはたらきとなって私たちに働く力が
『他力本願』
と言います。