「いのちの真実」(下旬)それでも我が子が死んでいくというのは怖かった

 世の中にはいろいろな宗教があります。

そして

「死んだ後のこと」

については、それぞれの教えにおいてそれなりに受け止められています。

ですから、ちゃんとその教えを信頼できるならば、死はさほど恐れる必要はありません。

また

「死んでいく」

という出来事も、やはりそれらの教えの中できちんと答えが出されておりますから、そこにおまかせすることが出来たならば、死んだ後のことと同様、そんなに恐れるほどのことでもなくなるのでしょう。

私はそれが納得できました。

しかしその上でなお、我が子が死んでいくというのは怖かったんです。

この怖さはどういうことなのか、私はそれを見つめていかなければなりませんでした。

そして

「死」

という言葉の恐ろしさは死そのものにはなく、何の準備もなく生まれてきてしまい、何もわからないままに生き続けているという、

「生」

の宙ぶらりんさ、不気味さ、得体の知れなさ。

すなわち

「生きていること」

の恐ろしさを暴いてしまうところにあるのだという考えに至りました。

逆に言えば、死んでいくことをただ怖がるだけでは、生きるということはおぼつかない訳です。

ですから、死ときちんと向き合うことで、宙ぶらりんでしかないこの我が生を、くっきりしたものとして受け止められるようになるんです。

死ぬのは嫌だと言うふうにおっしゃる方は多かろうと思いますが、きちんと死に切ることが出来たならば、それはこの上ないことではないでしょうか。

死ぬのが嫌なのではなくて、死に切れないから、死が恐ろしい。

生きていることが苦痛になってくる。

そういうことなのではないかと思います。

死そのものが怖いのではないんですよ。

一番怖くて、一番目を向けていかなくてはならないのは、訳のわからないところで、気がついたら生まれてしまっていたという

「生苦」

であり、そのことを引き受けつつ、なお生きていかなければならないということなんです。

生きていることの方が恐ろしいとは、そういうことなんだと思います。

「死後」

の解決は問題ではありません。

「今」

生きているということをどう見つめ、どう引き受け、そしてどう解決していくかが一番大きな問題だと言えるでしょう。