いきなりそんなことを言うと戸惑われるかもしれませんので、私自身が味わわせていただいたところをご紹介しましょう。
私には3人の子がおります。
今から2年以上前のことですが、上から2番目の男の子を、本人が中学3年生のときに、小児ガンで亡くしました。
3年間病気とつきあいましたが、ずっと入院していた訳ではありませんでした。
大きな手術を3回受けておりまして、その前後、短いときで4カ月、長いときで半年ぐらいの入院が3回でした。
ですから3年のうち、半分ほどが病院の中、残りの半分は普通に学校に通っていたというような状況だったんです。
病気が病気でしたので、最初の入院のときはさんざん右往左往したものでしたが、後になって振り返ってみれば、まだ平和なものでした。
なにしろ目の前にいたのは、ごく普通の男の子だったんですから。
とはいえ、放っておいたら大変な病気ですから手術をし、抗ガン剤の治療が施されました。
ですがこの最初の入院、手術、そして抗ガン剤治療のときはその実感がわかず、治療が終われば元通り元気になるものだと思ってのんきに過ごしていたんです。
しかし転移が見つかって話が変わりました。
転移は、既にガンが体中に散らばっているということと、抗ガン剤が十分に効いていなかったという2つの意味を持つからです。
そうなると、ガンという病気が非常に重く感じられるようになります。
最初は良くなるという前提で眺められた治療も、効果があるのは4人に1人ということで、先の見通しができなくなっていました。
そうして、肺だけでなく体中が検査にひっかかるようになり、我が子が死んでいくというのはどういうことなのかを、目をそらさずにきちんと見つめていかざるを得なくなったんです。
「死んでいく」
ということを仏教的に捉えようとするならば、それは
「生きている」
ことと表裏一体になります。
それを受け止め、納得し、死んでいくことを理解するために、私あえて生きているとはどういうことなのかを追究していきました。
そして、生きている姿というのは形を取り続けていること。
固まり続けている姿だと考えました。
例えば生物がケガをしたとき、治療の要不要はあれ、傷口はふさがるものですよね。
そうやって、この体というのは同じ形を取り続けているんです。
一方、自動車などが傷ついた場合、修理しない限り、直ることはありません。
私たちの体は生きているから治る訳ですよね。
このように、ある形を取り続ける姿が生きていることだと、今では理解させていただいております。
そうであるならば、
「死んでいく」
という出来事は、形を保つご縁が尽きて、生きている形がほぐされていくことだと受け止めることが出来ます。
それは形あるものが崩れて、ばらばらになることのように見えますが、逆に言えばかたくななものが柔らかくなるということだと言えるでしょう。
例えば、私たちが今、真っ暗で冷たいものの真ん中に経っているとするならば、自分の形を保てなくなる
「死んでいくむときというのは、何も残るもののない終わりを示すことになってしまうでしょう。
しかし浄土真宗では、いま私たちは
「大きないのち」
の上に立っていると受け止めます。
そうすると、かたくなにあり続けるご縁が尽きることは、自分というこだわりの方がほぐされて、そのまま
「大きないのち」
に帰っていくということにつながる訳です。