======ご講師紹介======
相星雅子さん(作家)
☆演題「鉛筆を杖として」
ご講師は、作家の相星雅子さんです。
昭和12年、旧満州大連市生まれ。
昭和21に父母の故郷である鹿児島に引き揚げ、以後鹿児島にお住まいです。
昭和31年に県立甲南高校を卒業後、九州電力に就職され、結婚後退職。
昭和48年から文芸同人誌に所属。
小説を書き始められ、平成2年に小説『下関花嫁』で第18回南日本文学賞を受賞。
また平成7年には鹿児島県芸術文化奨励賞を受賞されました。
主な著書に『華のときは悲しみのとき−知覧特攻おばさん・鳥浜トメ物語』『鹿児島の女性作家たち』『下関花嫁』などがあります。
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昭和21年、戦争が終わって中国から日本に帰る、本当に待ちに待った引き上げ船の出る日のことです。
そのとき、私は決定的な罪を犯してしまいました。
当時幼かった私と弟は、人の足と足の間を抜けて、泊まっている船に飛び乗りました。
まだ誰も乗っていない船の船室に荷物を広げて、後からやってくる家族の座る場所を確保していたんです。
でも、待てど暮らせど家族は誰も乗ってこない。
どうしたんだろうと思って甲板に出たところ、反対側の桟橋に大きな船がつながれていて、そこに向かって群衆が押し寄せて次々と上がっていくのが見えたんです。
それが引き揚げ船じゃないかと気がつきました。
私たちは、早とちりして、中国国内のどこかに行く船に間違って乗ってしまっていたんです。
それに気付いて、私と弟は急いで船を降りました。
実は、乗る時点で気付いていたことなんですが、私と弟の後に、幼稚園児くらいの男の子がついてきていたんです。
でもそのときの私には、その子のことを気にする余裕などありませんでした。
次々と中国の人たちが乗って来る中を必死で降りたんです。
降りた直後、中国船のタラップは回収されて、船が出て行きました。
本当に間一髪で、私たちは残留孤児になるところを免れて、引き揚げ船に乗ることが出来ました。
出港した引き揚げ船の中で、誰かが子どもの名前を呼ぶ声が聞こえました。
子どもが一人乗っていないって言うんですね。
そのとき私は
「ああ、もしかしてあの子じゃないか。
私と弟の後をついてきたあの子が、あの船に取り残されて、この船に乗れなかったんじゃないか」
とすぐに気がつきました。
もう確信めいたものがありました。
でも私は、そのことをある年齢になるまで黙って、誰にも言いませんでした。
そのまま鹿児島に引き揚げることになるんですが、とにかく私は取り返しのつかない、ものすごい罪を犯してしまったということになります。
鹿児島に行く途中、船が博多の港の沖合に泊まりました。
夜でした。
遠い所に博多の街の灯火が見えていました。
その美しい灯火を眺めたとき、私は初めて自分が何ものであるかということを自覚することができたんです。
いろんなことを心の奥底に隠している
「灰色の子ども」、
それが自分なんだとはっきり認識しました。
鹿児島に帰って最初に住んだ家は、今の中央郵便局があるあたり、西鹿児島駅(現在、鹿児島中央駅)の横の線路を背にして建っていた長屋でした。
そこで父は商売を始めました。
暮らしは次第にましになっていきましたが、本当に食べるものにも事欠くような状態でした。
そんな暮らしでしたから、本なんて絶対に買ってはもらえません。
もっぱらお金持ちの友だちから借りて読んでいました。
戦後3年も経つと、貸本屋が街に無数に出来るようになりました。
活字に飢えている人は多かったんですが、買える本がなかったので、貸本屋に行って読む訳ですね。
私も学校帰りに貸本屋に寄って、ずっと立ち読みをしていました。
母からは1冊だけ借りることが許されていたので、さんざん立ち読みして最後に1冊だけ借りて帰るんです。
そのころの私は、少年少女小説が大好きでした。
自分の心が灰色だっので、正しく美しい心の主人公がまぶしくて、そういう人が幸せになるお話が大好きでした。
私はその登場人物に自分を重ねて、自分まで正しく清らかな心になった気分になって、うっとりしていたんです。
本を借りること自体は、母も文句を言わなかったんですが、別のことではよく叱られました。