「念仏の教えと現代」12月(前期)

現代の人々は、普通どのような人生観を持っているのでしょうか。

ここでいう人生観とは、人間にとっての生と死の問題、いわゆる生死観のことですが、私達の人生の見方は、率直に言うと生きるという面、つまりいかによく生きるかという、その一点に自分の立場をおいて人生を眺めようとしていると言えます。

明日をどのようにしてよく生きるかという、そういう面のみを見つめているのです、それは、いかに自分は幸福に人生を終えるか、そのような人生の見つめ方が現代を生きる私達の特徴であるといえます。

この場合、生きるということと死ぬということは、全く次元が違います。

生と死は全然次元が違うのですが、その生と死の両面すべてを併せて、私達は生きるという立場から生と死の両方を見ていると考えることができます。

ということは、私達が語っている人生論は、生きるための幸福論にしか過ぎないと考えられます。

したがって、いかにすれば人間は幸福に生きることが出来るか、といったような幸福な人生のあり方が、私達の考え方の全てを支配しているといえるのです。

そうだとしますと、私達は自分の死そのものも、幸福論の線上で見ていることになります。

これは、今日のテレビ・映画などで死ということが問題にされている場面を思い起こしていただくとよいのですが、死そのものを生き方の中でとらえ、その中で幸福論的に追求されているように見受けられます。

幸福論的にとは、どうすれば自分がよく生きることが出来るかということです。

それを老いの問題についていえば、どうすればいつまでも若さを保つことが出来るかという説明になります。

そこでは、いつまでも若さを保つことができる秘訣が語られることになります。

八十になっても九十になっても、若々しい心身でいるためには、どうすればよいのかという観点からのみ、私のあり方が問題にされるのです。

病にかかった場合でも、今日では病にかかっても、このように痛みを消すことができる医学が発達していると説明されます。

そして最後は、いかに楽に死ぬかですが、その死に方までもが幸福論的に述べられることになります。

このように、全てがバラ色の人生の中にあるかのようにとらえられているのです。

まさに老いが、病が、そして死そのものまでもがバラ色で語られているのが現代の特徴だといえます。

確かに、人々の心に常に希望と勇気を持たせることは、それはそれでけっこうなことなのですが、本当に死を迎える瞬間が、そのようなバラ色でありうるかどうかということは、もうひとつ考えてみなければならないのではないかと思われます。

幸福な死の迎え方、仏教もまたこの一点を問うのですが、今日的な見方とは、根本的な違いがあるといわなくてはなりません。

なぜなら、仏教においては、老病死はやはり人間にとって最も不幸なことだととらえるからです。

ところが、その不幸を科学が打ち破って、それを幸福にしようとしています。

科学的な生き方においては、人生はどこまでも幸福だという方向で語られているのはそのためです。

そのため、現代の社会においては、一見、科学が宗教を凌駕して支配してしまった、あるいは科学が宗教を超えたというような見方が共通理解であるかのような現象が生じてしまっているのだといえます。