「浄土」
とは、清浄で喜びと幸福に満ちた永遠なる世界の意味で、私たちの現実の迷いと苦悩のみの
「穢土」
と対比されている世界です。
そこで穢土が凡夫の世界だとしますと、浄土はまさしく仏の世界になります。
したがって十方の国土に諸仏が存在されるのであれば、東西南北に無数の浄土がましますことになり、薬師仏の瑠璃光(るりこう)浄土、釈迦仏の霊山(りょうぜん)浄土、大日如来の密厳(みつごん)浄土、それに阿弥陀仏の極楽浄土などがよく知られています。
私たち浄土教徒は、それらの浄土の中から唯一つ、阿弥陀仏の浄土を選び、阿弥陀仏に摂取されて、その浄土に生まれることを願っています。
なぜならば、釈迦仏をはじめ十方の諸仏がこぞって、阿弥陀仏の浄土こそ最高の浄土であると讃嘆され、その浄土に往生せよと勧めておられるからです。
では、それはどのような浄土なのでしょうか。
「浄土三部経」
によれば、無限の兆載永劫という昔に、法蔵と呼ばれる菩薩が一切の衆生を救うために四十八の無上の願いを建てられ、その誓願をことごとく成就して阿弥陀という仏になられたと説かれています。
浄土とは、その阿弥陀仏のまします国土を指します。
またその国土は、十劫という、計り知れない昔に建立されており、ここより西方、十万億土に存在するとされます。
そして、国土の全ては清浄であって、危険な場所、迷いや汚れの因になるものは全くなく、広大にして無辺、自然の七宝が輝いており、気候は熱に快適で、衆生はすべて智慧にすぐれ、何の差別もなく平等であり、また阿弥陀仏の仏法を喜ぶ最高の菩薩たちであって、十方の一切の諸仏国土を超越していると述べられています。
ところで、このような浄土の描写をうかがいますと、その存在は仏教の空の思想と矛盾するのではないかという疑問が生じます。
仏教では、究極の仏の性(本質)を、真如とか空、あるいは法性といった言葉で表現していますが、この真如の仏は凡夫の眼には見えませんし、凡夫の知恵では理解することも捉えることも出来ません。
しかもこの最高の仏は、その迷える凡夫こそ救おうとしておられます。
そこで真如法性は、仏の本質を動かさないで方便として、凡夫のために姿を現されることになるのです。
それがまさしく阿弥陀仏とその浄土なのです。
日の沈む西方は、一切の存在の寂滅を意味します。
阿弥陀という仏は、寿命が無量で無限に光り輝いているのですが、それは最高の智慧と慈悲そのものを表しています。
そして、浄土の素晴しい荘厳は、清浄なる真如の真実性を、何とか凡夫に伝えようと語られている言葉になります。
親鸞聖人は、この方便の真実性をさらな明らかにするために、阿弥陀仏の浄土を、ただ光明無量、寿命無量としてとらえられ、真如こそ無限に輝く光そのものに他なりませんから、真如の空と光明無量の阿弥陀仏が、全く矛盾していないことをその著述において顕彰しておられます。