神や仏の力を信じて、その加護を祈ることを信仰といいますが、浄土真宗では
「信心というは、すなわち本願力回向の信心なり(「教行信証」信巻)と言われるように、阿弥陀仏から与えられた信心です。
浄土真宗では、信心を
「まことのこころ」
と読み、仏の誓願によびさまされた真実の目覚めをいいます。
仏の本願を信じるということは、仏の願心によびさまされた、大いなる目覚めなのです。
仏の本願は大悲の智慧ですから、本願に開かれた信心もまた、智慧です。
仏の智慧に開かれた信心は、おのずから智慧のはたらきをもつのです。
中国浄土教の善導大師は、信心の自覚内容として二種を説かれ、一つには自身は積み深い凡夫であって、救いの縁なき身であること、二つには阿弥陀仏は、その身を必ず救ってくれることとされました。
親鸞聖人は、第一の信心は自身の智慧であり、第二は仏の本願のはたらきに乗託する信心であると了解されました。
真実の信心は、仏の本願によびさまされた目覚めですから、ただ単に神仏を崇めてその威徳に頼ろうとする信仰とは、本質的に違います。
信心は、自己自身と仏への明確な信智を度各内容とする深い目覚めであり、仏の智慧を生きる自覚だといえます。