「焼酎に魅せられて」(中旬)焼酎は清酒がいらない世界を作り出した

人間の舌が一番甘く感じる温度は35度前後だと言われています。

それより低くなると味が変わってきます。

温かいときの味噌汁はおいしいですが、冷たくなると塩分を強く感じやすくなるのと一緒です。

だから冷たい料理というのは、塩分を控えめにしなくてはいけない。

温かくすると甘さを感じますし、渋みも感じにくくなってきます。

お湯割りというのは、そういう意味でも合理的に出来ているということです。

結局、鹿児島の焼酎というお酒は、恵まれた条件下で生まれたのではないといえます。

米がなくて暑い土地、さらにサツマイモという酒造りにしってやっかいな原料。

昔の人たちは、そういう風土の暑さとかサツマイモの特性というハンデを逆手に取って、さまざまな知恵を出しました。

その結果生まれてきたのが、オリジナリティーを持った焼酎というお酒だったんです。

それは食中酒であることや、お湯割りで飲めるお酒であるということ。

あるいは清酒がいらない世界を作り出すという、蒸留酒でありながら、他の蒸留酒にない考えを導入したんです。

だから、蒸留酒であって醸造酒のように飲めるというわけです。

そして、この焼酎というお酒の特性は、鹿児島、薩摩人だけに求められたというわけではなく、日本人全体がそういうものを求めていたんです。

焼酎は体に優しい、酔い覚めのいい、自分の好みに応じて飲める。

食中酒に合うような、そういう性質、普遍性を持っていたということです。

そして、鹿児島の風土の中で磨かれた焼酎を日頃飲んでいる人には、ウイスキーとか清酒といった、他のお酒はあまりなじみがなくなってきます。

このように、焼酎文化は、焼酎以外の物がなかなか入って来れなくなる世界を作っていったわけです。

このハートフル大学の開催主旨の中には、科学万能・経済優先・合理主義が謳歌される社会、便利・簡単・スピードという価値観が重要視される日常の中に生きる私たちは、本当に大切なものを見失いつつあるんじゃないかということが謳われています。

実は、この見失いつつあるものというのが、焼酎の世界を広げてきた一番大きな要因だろうと私は考えています。

お酒というのは、元々地元にある産物を使って全部埋まってきているんです。

農業的でありながら、地域性を持っているということです。

そして、それが風土性を作ってきていたんですね。

ところが20世紀型の科学技術万能社会では、技術というのがお酒をずいぶん変えてきた。

その目指すところは何かというと、いい物を大量に作ってやすく売るということです。

それは技術が非常に得意といるところです。

ところが、その行く着く先は何かというと、いわゆる風土性の消失、大量生産、品種・品質の画一化、低コスト化、こういうものがあるんですけれども、実は、この失われていくものの中で、一番大事なものが風土性なんですね。