「親鸞聖人が生きた時代」5月(中期)

仏教の死後観は、普通六道輪廻の語で示されます。

六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの迷界のことで、各界にはそれぞれ特有の苦が存在し、人間界より上位の天上界も、その例外ではありません。

至福の境涯を約束する浄土はこの六道を抜け出たところにあり、浄土への片道切符を入手するには、ただ一途に仏法にすがる他はないとされていました。

ところが、末法時には、仏法そのものまでもが衰滅してしまうために、人々はいくら修行に励んでも、六道輪廻の苦患(くげん)から絶対離脱することはできず、また現世も苦に満ち満ちていますが、それに数十倍する苦の充満した六道の世界を、永劫にさまよわなくてはならないことが、当時の人々の心に重苦しくのしかかっていました。

こうした認識は、現代人の思いが及ばないほど生活の全般に仏教の影響を受けていた当時の人々にとって、死に対する以上の恐怖感を催させるものでした。

そのため、わが国で末法第一年と信じられていた永承七年(一0五二)が迫るにつれて、末法ヒステリーとでもいうべき社会的パニックが巻き起こりました。

どうしたら自分は救われるのか、いや、なんとしても自分だけは仏の救いにあずかりたい…。

人々は自己の救済を求めて狂奔し、さまざまな手段をめぐらせました。

そして、その果てに現れた過激派が、先に見た死に急ぐ僧俗でした。

彼らは、末法時が深まらないうちに一日も早く現世を厭い離れ、自分の生命と引き換えに浄土への切符を確保しようと思い詰めたのでした。

末法思想は、このように悲惨な現象を当時の社会に続出せしめましたが、一方でいわゆる鎌倉新仏教の成立を促す呼び水の役割も果たしました。

その意味で、末法思想は鎌倉新仏教誕生の母胎といってもよく、どの宗派も大なり小なり末法の克服を課題として発展し、終末観的予言に悩み苦しむ人々の間に広まっていきました。

しかも、末法思想は単なる予言としてのみ機能したのではありません。

あたかも正確無比な科学的予測のように、予言的中を思わせるような事態が次々と出現したことにより、いっそう人々を怯えさせ、浮き足立たせることになりました。