平安時代の末期、人間社会の未来の否定を内包した終末的予言が、恐怖的な暗黒底流として、時代精神に刃をつきつけていました。
いわゆる
「末法思想」
です。
事実、戦乱や天災が相次ぎ、この世は地獄のようなありさまでした。
そうした時代に、親鸞聖人はお生まれになりました。
平安中期から鎌倉時代にかけて著された諸種の
「往生伝」
をひもとくと、そこにはひたすら死に急ぐ僧侶がたびたび登場します。
たとえば…、
比叡山の行範(ぎょうはん)は、大坂天王寺の門前から西の海に漕ぎだし、袂に小石などを詰めて海底に沈んだ。
備中国吉備津宮の神人(じにん)藤井久任は、近くの丘に積み上げた薪に火を放ち、燃え盛る炎の中に我が身を投じた。
武蔵国慈光寺の延久(えんきゅう)上人は、本堂に籠もって食を絶ち、十日ほどして餓死しているのを発見された。
京都のとある上人は、衆人が見守る中、阿弥陀峰の麓において焼身自殺した。
近江三津浦の聖(ひじり)は、結縁(けちえん)の僧俗の乗る数十艘の小舟と共に琵琶湖中に進み、合掌・結跏趺坐(けっかふざ)の姿のまま水中に消えて行った…。
死の手段としては、以上に見た入水、焼身、断食のほかに、縊死、埋身(土中入定)、切腹などもありました。
それらの自殺は総称して異相(いそう)往生と呼ばれ、
「往生伝」
はそのいずれについても、讃嘆すべき行いという態度をもって言及しています。
それにしても、彼らはいったいなぜそんなにも死に急いだのでしょうか。
彼らを自殺へと誘ったのは、いったい何だったのでしょうか。
答えを先に言ってしまえば、その何かとは、
「末法思想」
でした。
末法思想とは、釈尊の教えが少しも守られない現実世界に危機意識を抱いた仏法者が、インドにおいて説き始めた思想で、日本には平安初期、中国を経由してもたらされました。
この思想の眼目は、釈尊の入滅後、年代が経つにつれて正しい教法が衰退するというところにあり、その段階は正法・像法・末法の三時に分かたれるとされていました。
そして、最後の末法時になると、人々がいくら仏教信仰に励んでも絶対に救われず、この世には戦乱や悪疫がはびこって、地獄のようなありさまになるというのです。
つまりは、現世の否定、人間社会の未来の否定を内包した終末的予言であったわけで、しかもそれが死後の世界の認識とも深く関わっていたため、いっそう深刻でした。