さてここで今一度、私たちの人生における三つの柱の問題について考えてみたいと思います。
それは、安らぎを得ること、善い行いをすること、理性的な生き方をすることの三つですが、私自身がそのような生き方をすることと、阿弥陀仏との出遇いの関係についてです。
端的にいうと、一方で三つの条件を満たす人生を求め、そして他方で阿弥陀仏をつかもうとしても、絶対に阿弥陀仏と出遇うことは出来ないといわねばなりません。
なぜなら、前者の破綻が後者の可能性を導くことになるからです。
ここでまず私たちは、自分自身がどうしようもない愚かさの中にあることが知らされます。
けれども、そのどうしようもない愚かな自分が、自分の姿の愚悪性を知ったが故に、阿弥陀仏に出遇うという縁に恵まれることになったのです。
では、この人間と
「善行」
との関係はどうなるのでしょうか。
人間である以上、善を行うのは当たり前のことです。
けれども、真に愚かさを知った人間にとっては、その行為において、自分はこんなによいことをしているという力みは消えることになるのではないかと思われます。
ここでは、愚を知るが故に、お互いがお互いを許し合うという非常に柔軟な心が生まれます。
ここに、親鸞聖人が明らかにされた信心の特徴が見られます。
しかもこの人は、臨終ということを全く問題にしません。
この信心の人々を、まさしく仏果が定まった人々という意味で
「正定聚の機」
と呼んでいるのですが、この人々の心は、今まさに如来に救われている、すでに如来の大悲の中で生かされているという強さに満ちていることになります。
だからこそ、この人々にはもはや迷信など問題ではなくなっています。
しかもここに、生き生きとした、念仏を喜び、その念仏の素晴らしさを他に伝えるという、念仏者の実践が始まることになるのです。
これが、親鸞聖人の教えのあり方の基本ということになるといえます。