そうしますと、私たちの人生は、ここで根底からひっくり返ってしまうことになるのではないでしょうか。
なぜなら、私たちの一切は今まさに南無阿弥陀仏という仏さまの大いなる慈悲の中で生かされていることになるからです。
それは、大いなる仏の心の中に自分の姿があるということに他なりません。
そうだとすれば、たとえこの自分にどのようなことが起ころうと、それはそれでよいということになってしまうのではないでしょうか。
一般に、私たちは科学的にあるいは道理的に判断できるようなことや、筋の通っていることには理性的に対処することが出来るのですが、全ての人間は例外なく常に不条理の中に佇んでいます。
そのため、突然の不幸に見舞われると、心が動転して、自分がいったいどのように進んで行けばよいのか全く分からなくなってしまいます。
そのために、迷信や俗信といった訳のわからないものにしがみつくより他に仕方がなくなってしまったりします。
けれども、愚かな人間の心からしますと、老いと病と死との中では、やはり必然的に苦しまなければなりません。
寂しさの中では寂しさに落ち込んでいかなくてはなりませんし、激痛があればその痛みの中でのたうちまわる自分の姿が現れてきます。
しかも、凡夫である私には、残念ながらこれを拭い去ることは出来ません。
世間には、仏教を名のり、経典を読誦したり、仏力を信じることによって病気が治ったりすることを説く教えもありますが、因果の道理から言えば、既に
「生」
という因がある以上、私たちはその結果として必ず
「死」
に至るのです。
したがって、その縁は無量であって、その縁の一つである病気を除くことに宗教が関わるはずはないのです。
まさに、老いと病と死との中で苦しむことこそが現実の凡夫の姿であって、自分ではどうにもしようがないのですが、一方でその自身は無限の仏の光の中に生かされているのです。
まさに、さまざまなことに迷い、多くのことに惑う中で、私たちは自分の心が無限の仏の中で輝いている、そういう自分を見出すことが出来るのです。