「わが心を育てる」(下旬)心に肉を付ける

ヴィジュニャーナとマナス、この二つは経験的に分かると思います。

しかし、これらはまだ上っ面です。

問題はこの底にあるチッタです。

これは

「これです」

という説明が出来ないんです。

どういうことかと言いますと、とっさに出て来る心は、いつでも自分をかばうために出来ているんです。

だから仏法ではこれを我愛と言います。

この我愛の上っ面に百八つの心がフラフラしている。

根は、みな我が可愛いんです。

口では

「どうぞお先に」

と言っているが、根は

「我が可愛い」。

これが地獄に堕ちる心ですよ。

この我が可愛いという

「我」

がチッタです。

これは経験的には説明できない。

皮があって、肉があって、一番中に心がある。

この心のところにいのちがある、種があると仏法は教えます。

上っ面の心が腐ったり、焼けたりしてなくなっても、これだけはどうなるのか。

ここから仏法の非常に深いものの考え方があるんです。

「仏さまを信心する」

というのは、ここのことを言うんです。

ちょっとやそっと話を聞いて

「今日はいい話を聞いたなぁ」

と言って、家に帰ったらもう渇いているでしょ。

「今日は何の話だったかなぁ」

というようなもんです。

それは、上っ面の識や意のところで聞いているからですよ。

信心というのは、心の底、いのちに聞くんです。

ですから、一回や二回、親鸞さんの話を聞いたら分かるというもんじゃないんです。

先ほど教育についてお話しましたが、育という字、これは中国の字で、上は子という字がひっくり返っているんです。

下の字はお月さまではありません。

肉月です。

子どもに肉が付くのを

「育つ」

というんです。

ではなぜ子が逆さまになっているのか。

学者はこれを議論するんです。

東京大学の教授によれば、お母さんのお腹にいる時、逆さになっているからだと。

しかし、私が言いたいのは、体に肉を付けるということではありません。

心に肉を付けろと言っているんです。

そして、今生の計算を超えたところの仏法を聞いたら、心がまるまる育つんです。

では、日本語では

「そだつ」

というのはどこから来たのか。

一つは

「巣立つ」。

もう一つは、古くから

「添え立つ」

という言葉から来たんだと言われています。

「添え立つ」

というのは、家庭菜園をされている方がいらっしゃると思いますが、キュウリやトマトは杖を付けないといけません。

キュウリなんて杖がなかったらダメですね。

あのそばにしっかりとした杖を立てることを

「添え立つ」

というんです。

私たちが心を育てるというは、そういう意味があるんです。

私のそばにしっかりとした杖が立ってくれないと、それを頼りにしないと、われわれの人生はまっとうには育たないんです。

私たちは自分一人で立っていると思いますか。

心を育てるということは、心の杖がお仏壇です。

お仏壇を持って、朝晩きちんとお参りする。

これが出来ていたら、まず心は育ちます。

これが日本の昔から先祖代々習ったものです。

元京都大学の先生で、鹿児島ご出身の方がいらっしゃいます。

この人が

「私は小さいときに、朝おばあちゃんがお仏壇に座ってリンを叩いたあの音が、今でも耳に残っています。

あれで目が覚めました。

私はそれから仏法のご縁はないんですが、おばあちゃんがお仏壇の前に座ってリンを叩いていたあの姿、今なつかしく思います。

だから私は仏法が好きです」

とおっしゃった。

手を合わすお仏壇を大事にしながら、それに添え立ってもらいながら、それぞれの人生をまっとうして頂きたいと思います。