しかし、考えてみますと、宗教はもともと、生身の人間が確認することのかなわない理念に満ちています。
ことに救済の確信というのは、ずいぶんあやふやなものです。
結果が形として具現化するわけではありませんし、身も蓋もない言い方をすれば、死んでみなければわからない事柄に属する事柄だからです。
少なくとも、浄土往生を問題とする限り、そういうことになります。
したがって、たとえ欺かれてもよいという覚悟のもとに、全身全霊を投じて信に徹するという操作がここに必要となってきます。
いや、むしろ、まず信じ込むことこそ必須の前提であり、その意味で法然聖人や親鸞聖人の直感的選択は信仰の本質に肉薄する最も有効な手だてであったという見方も成り立ちます。
ともあれ、親鸞聖人は法然聖人の教えに心底から共鳴し、その門下に連なることになりました。
親鸞聖人が比叡山を下り、東山吉水の法然聖人のもとに赴かれたのは、二十九歳の建仁元年(一二0一)のことです。
なお、この法然聖人との出会いを親鸞聖人は、その主著
「教行信証」の後序に
しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す
と感銘深く記され、またその感激を晩年に至るまで、あたかも昨日の出来事であったかのように語っておられます。
この出会いからほどなく、親鸞聖人はその実践において、法然聖人よりもさらに一歩進んだ地点に踏み出して行かれます。
法然聖人は、浄土宗を開宗された後も、聖道門系の修行法である観想念仏を継続されましたし、さらに終生、持戒の生活を守り続けられました。
さらに、法然聖人は次のようなことも仰っておられます。
「聖(ひじり)であって念仏できないならば、妻帯して念仏せよ。
妻帯したために念仏ができないというのなら、聖になって申せ」
けれども、このような柔軟な妻帯観にもかかわらず、法然聖人は一度も妻帯されることなく生涯を終えられました。
ところが、親鸞聖人は、現実に妻帯をされました。
親鸞聖人は『教行信証』の中で
「末法の世では、僧侶も妻帯し、子どもをもうける。
世の人はこれに対し、正法時の聖者舎利弗・大目蓮のように遇するべきである」
と述べておられます。
一読して明らかなように、親鸞聖人は妻帯することに対して、積極的に認知すべきこととする姿勢が強く、従来の仏教的常識に完全と挑んでおられたかのようです。
その意味で、親鸞聖人は公然と妻帯した第一号であられたと言えます。
親鸞聖人のこのような姿勢は、承元の法難に連座して越後に流されたあとさらに強まり、
「愚禿釈親鸞」
を自称して、生涯にわたり
「非僧非俗」
の生活を貫かれます。
このように、公然と妻帯することが出来たのは、親鸞聖人が阿弥陀仏の本願の中に、他力信仰の真髄を読み取られたからだと推察されます。