この関係を理解して、卒業してくれた学生が短大にもいました。
それもやはり友だちの死を見せつけられて初めて、仏さまの世界に気付いてくれました。
仲のいい3人の学生が休日にドライブに出かけたんです。
朝、実家のある三重県を目指して京都を出発し、お昼ご飯を向こうで食べて、京都に帰ろうとしたその途中でした。
おそらく前に遅い車がいたんでしょうね。
追い越そうと対向車線に出たところ、前から来たトラックと正面衝突してしまったんです。
向こうは大型、こちらは小型ですから、3人は即死。
本当に痛ましい事故でした。
短大というのは、入学した翌々年が卒業です。
なので2年間で仏教のことを分かって卒業してくれるか本当に心配でしたが、その事故があってから教室の雰囲気が大きく変わりました。
翌日講義で教室に行くと、亡くなった学生がいつも座っていた席をみんな異様な目で見ていました。
みんな新聞を見て知っているはずなのに、
「先生、どうして彼はいないの」
と言うんです。
これは、頭では納得できても、腹で納得できない、そういう言葉だったんだと思います。
短大の卒業論集に、わずか2ページでは有りましたが、15人ほどの学生が亡くなった彼のことを書いてくれました。
私は20歳の学生が書いた
「改めてこの世の無常さを認識し、生かされているいのちに感謝します」
という文章を見てびっくりしました。
諸行無常ですよ。
友だちが急に亡くなって無常ということに気付いたんですね。
2日前までは同じように勉強していたその彼が、今いない。
そうすると、自分が今生きているのが不思議でたまらなくなった。
今までは
「自分が生きている」
と思っていたけど、実は生かされていたんだ、というのがその言葉ではないでしょうか。
他にもたくさんの学生が
「生かされて生きる」
と書いてくれました。
今まで
「阿弥陀さんなんて本当にいるの」
と言っていた学生たちがですよ。
そしてある学生は最後に
「散る桜身を持って示す仏かな」
と、書いていました。
事故で亡くなったその友だちを散る桜に、散る桜を仏さまにたとえているんです。
この世は諸行無常だから、必ず死んでいかなければならないんだよ、と教えてくれた仏さまの化身だったんだというんです。
自分一人で生きているんじゃない。
このような思いになったら、自らのいのちを絶つなんて、とんでもないことです。
それ以上に、他人のいのちを絶つなんて、とんでもないことです。
与えられたいのち、生かされたすのちなんです。
ですから、
「どうして人を殺してはいけないんですか」
と問われれば、
「ダメなものはダメ」
とこう答えるべきではないでしょうか。
仏さまの世界がわかったとき、生かされて生きるということがわかったとき初めて、納得できるものなんです。
西洋教育は最初から
「なぜ、どうして」
と言います。
それに対して仏教は
「そのうちに必ず納得できるよ」
という追体験の世界。
ですから、仏教的に言えば、
「ダメなものはダメよ」
と言うような教育の仕方も必要ではないかと私は考えています。