「おどろかすかいこそなけれ村雀耳なれぬれば鳴子にぞのる」
初めて鳴子の音を聞いた時にはびっくりして一目散に逃げていた雀が、今ではすっかり鳴子の音に慣れてしまい、こともあろうに鳴子の上に乗って遊んでいるということを歌ったものですが、蓮如上人はこの歌を引用なさって
「ただ人は、みな、耳なれ雀なり」
と注意しておられたと伝えられています。
これは、初めて仏法を聞いたときには、感動し、歓喜したものも、聞き馴れるに連れて、やがて無意識の内に
「耳なれ雀」
になってしまうことを戒めておられたということです。
そこで蓮如上人は、仏法を聞く時には
「同じことを何度聞いても、いつもめずらしいことを初めて聞くような心持ちで聞くようにしなさい」
と諭しておられます。
省みれば、私達僧侶は日頃から絶え間なく仏法に親しみ、阿弥陀如来のはたらきを厚く被っておりながら、ご門徒の方々と一緒にお聴聞の場に座っていても、その内実においては
「既に何度も聞いて、自分はよく理解している」
と、つい聞き流してしまったり、教えと真摯に向き合うことに鈍感になってしまっている面が少なからずあるように思われます。
恥ずかしながら、これこそまさに蓮如上人のおっしゃる
「耳なれ雀」
の姿そのものだと言えます。
それに対して、仏法を聞けば聞くほどに、自分が仏法から遠く離れ背いていることを悲しむ心を持っている人は、たまたまの縁に遇えばその縁を大事に仏法を大切に聞かずにはおれないものです。
そうしますと、実は教えから遠く距たっていることを悲しむ人こそ、もっとも教えに近く生きている人であり、反対に自分こそもっとも仏法に近く生きているものだと自負している心こそ、もっとも仏法から遠く距たっている心なのだといえます。
ですから、蓮如上人は
「自分は、仏法のことはもう良く分かったと思っても、その時にはまだよく分かってはいないものだ。
自分には、仏法は分かりつくせないと思えたときが、実はよく分かったときなのだ。
だから、仏法を少し聞いたくらいで自分はもうよく分かったと思うべきではない」
と言われるのです。
このことから、仏法に対して馴れ馴れしくなってしまうということは、仏道の歩みにおいては致命傷であることが窺われます。
なぜなら、馴れ馴れしくなってしまった時には、阿弥陀如来や親鸞聖人、蓮如上人などの善知識を自分の背にして、他人を上から見下ろしてしまう愚を犯してしまうことになりがちだからです。
言い換えると、自分はもう仏法のことは分かったとして、
「阿弥陀如来の教えはこうだ。
親鸞聖人、蓮如上人はこのようにおっしゃっておられる。」
と、その教えに自分の姿を照らしたり、聞き返したりすることを放棄して、自分の思いを如来・善知識の言葉で権威付けて、周囲の人々を切り刻むようなあり方に陥ってしまうということです。
このような意味で、私たちは蓮如上人がお諭しくださるように、何度同じ話を聞いても、まるで初めてそのことを聞くかのような心持ちで、謙虚に教えに耳を傾けることに努めたいものです。